「アンブシュア・喉・支え」
開いたアンブシュアの生徒は喉も地声状態です。そしていわゆる「息の支え」もありません。木管楽器も同じです。観察に慣れてくるとすぐ分かるようになります。喉を声楽的な意味で開いた状態で吹くようにすれば、自然に唇が閉じてきますから力を入れなくても自然に閉じた状態をキープできます。閉じてはいても固くなるという事もありません。
しかし、知識として開かないで吹く事を知っていても喉が開いていなければなかなか上手くいきません。このあたりで足踏みをするケースがよくあります。「息の支え」という現象もなく、どうしても上半身に力が入るようになります。頭で分かっていても、いざ実際に曲をやる時にはなかなか出来ないというような生徒も多く見かけます。
金管楽器はリップスラーという必須練習があるので喉、舌のバランスはわかりやすいはずなのですが、現実はなかなかそうはいかないようです。舌の微妙な動きが音を変える大事な働きをしている事が分かっていても、喉に余分な力があれば上手くいかないわけです。歌うように吹く、言い換えれば「母音は後ろ」という感覚がわかれば相当前進できるのですが・・・
この間吹奏楽の全国大会を聞きに行きましたが、以前より良くなったとは言え、まだ開いたアンブシュア、地声状態の喉、支えのない力んだ上半身という吹き方をしている団体もありました。あのまま吹き続ければだんだん苦しくなって来るだろうなと思える吹き方でした。
アンブシュアと喉、呼吸筋は互いに関連性を持って働いています。そのことをよく分かった上で練習すれば、無駄な事をしないで済むという事もあるのですが、まだまだ指導者側にその常識がないように見受けられます。中、高時代を地声モードで吹奏楽をやって来た生徒が音大へ入ってくると大変です。ソロ、アンサンブル、吹奏楽、オケ等やる事は沢山あるのでそのままの吹き方では行き詰まってしまいます。高校の吹奏楽指導者にその当たりの事を質問してみたいところです。
「フレーズ吹き?」 「一拍吹き?」
「息の流れが仕事をする」という言葉は「息の量」が仕事をするとか「息のスピード」が仕事をするという意味ではありません。先ず第一に息の流れが空気の波になり音になるという意味ですね。もう一つは音符をフレーズとしてとらえて吹くのであって、一拍ずつとらえて繋いでいけばフレーズになるという意味ではないという事ですね。チコーヴィッツのエチュードをさらった方はおわかりと思いますが、歌手の為に書かれたヴォカリーズ(母音唱)から入っていきます。短いフレーズから始まってだんだんとん長いフレーズになっていきますが、フレーズですからそれぞれを一息で吹きます。名手クラークの言う「ロングトーン」はベルカントの「長い息」という言葉本来の意味をきちんと押さえていて、その意味をチコーヴィッツも分かった上で書いている事が分かります。吹奏楽部の生徒達が時計をにらみながら「単音を出来るだけ長く延ばした人の勝ち」みたいな練習とは違っていますね。単純に「息の量」とか「スピード」とかを競っているわけではありません。
意識・イメージが身体のバランスを決めますが、一拍吹きをしている生徒は音楽表現が不自然であるばかりでなく、身体的にも不自然な力みが加わります。この後遺症はかなり後まで響きます。
クラークもチコーヴィッツもその当たりを分かっているのであのようなエチュードを書かざるを得なかったと思います。
先日行われた「中高生の為の管弦打楽器ソロコンクール」本選会の中学生金管部門でグランプリになった生徒は一年生のチューバの生徒でした。背の高さもまだまだこれからで小さな身体でしたが、きちんと響いた音で吹いていました。もっと大きな生徒ばかりでしたから、「息の量」とか「スピード」は関係なかった事が分かります。息の流れに音を乗せているわけです。唇を息の力で鳴らしてやろうというような吹き方ではありません。楽に楽器が響いています。こういう生徒が多くなれば吹奏楽の世界も随分違ったものになるだろうなと思いながら聞いていました。
唇が仕事をするという先入観があると、とりあえず開いて吹けば音が出るのでそのまま唇で歌おうとします。その結果、息に関しては「量」とか「スピード」しか気にならないのでしょう。フレーズを吹くという感覚から来る身体のバランスは息の流れに響きを乗せるという吹き方になります。このあたりの事が指導者に分かっている必要があるのですが、残念ながらそれほど常識とはなっていないようです。先日もまた「強制深呼吸」によって気胸になってしまった被害者からメールが届きました。闇然とさせられます。指導者はまだまだ危険な事を教えているようです。
皆さんはどの様にお考えですか?
「ある高校生の場合」
時々やってくるあるTPの高校生は調子を崩すパターンが決まっています。去年の吹奏楽コンクールの後、アンサンブルコンクールの後、そして、今年のスプリングコンサートの後です。
毎回レッスンをして調子を取り戻して帰るのですが、同じ事が三回も起きていました。
中学生の頃から少しずつレッスンをしていた生徒で、その頃は「ローマの祭り」の例のソロなどもいい音できっちりと吹けるぐらいですから、かなり上手な部類に入る生徒です。
もちろん粘膜奏法ではありません。
よく聞いてみると理由が分かりました。顧問の先生の要求に忠実に応えていたのです。
先ずパート練習で「音程を合わせなさい」ということでチューナーのメーターをピタッと止めることに集中します。そして「バランスが悪い」ということで鳴らない生徒に合わせます。
そのままだと全体練習では音量が足りないので今度は「息をもっと沢山使え」という話になって唇はガチガチです。思わず絶句でした。
先ず楽に響く音で吹くようにして、響きを合わせ音程を合わせます。そこでバランスをとって、合奏でもまた同様なことをやれば調子を崩すような事はないのです。「響き」を中心において個人からパート、合奏へと繋げていないのでこんな事が起こってしまいます。
チューナーのメーターをピタッと止めるには唇で音を握るのが早道です。その状態で息を押し込めば唇はますます硬くなります。
生徒は真面目なので忠実に先生の要求に応えようとして最悪の結果になっています。
同様な例がほかにもありました。こういう指導をしてしまう先生は少なくないと思います。
合奏といっても個人の集合体なので、それぞれの生徒が楽に響くいい音をベースにしてくれないとリズムもハーモニーも上手くいきません。「ブラス界にはブラス界のやり方がある」とでもいうような開き直った指導方法に思えます。
しかし、「響き」「楽に響く吹き方」ということを忘れないで指導をすればいいだけの話なのです。
とはいえ、粘膜奏法でバーバーとただ単にうるさい音を「響いてる」と誤解している指導者も沢山いますから難しい話なのかも分かりません。
この生徒は音大受験を希望していましたから「部活を早く止めないと同じ事がまた起こるよ」と言っていました。しかし、先生に慰留されたりして同じ失敗を三回も繰り返すことになってしまいました。今回やっと部活を止めて個人の事に専念できるようになったようでが、今度は「部活を止めたのだから学校で練習するな。家でやれ」と言われてしまいました。すごい先生もいるものです。
「音の構造は?」「合わせるとはどういう事?」というような基本的な事には悩まないのでしょう。
そのかわり、いじわるすることだけは忘れないのです。皆さんはどの様にお考えですか?
「さまざまな生徒、さまざまな言葉」
たくさんの生徒を教えているとさまざまな言葉が必要になります。たとえば「子音は前、母音は後ろ」という言葉で説明して理解して結果を出してくれる生徒もいれば、そうでない生徒もいます。実際に歌って見せて、生徒にも発声させてから楽器でやってみて納得する生徒もいます。それでも理解しない生徒ももちろんいます。「どういう言葉を使えばいいのだろう?」と悩んでしまうのはしょっちゅうです。唇に力が入っている事に気がついていない生徒がいました。(よくあることですが)「息の流れが仕事をする」という言葉を理解できないわけです。「息の流れに音を乗せて」と言っても今ひとつわかっていません。「唇が歌うのではなく、空気が歌うんだよ」と言ったらそこで初めて無駄な力が抜けた事もありました。
粘膜奏法は地声(話し声)状態の喉とセットになっていますが、この問題も理解するためには大変な生徒はいます。音を聞けばすぐ分かる事なのですが、やはり生徒によってさまざまな言葉が必要になります。「すぐバテる」「高い音が苦しい」「低い音域を吹くとマウスピースが下にずれる」その他、生徒の訴えもさまざまです。自分がとりあえず音を出しているだけという自覚がない生徒、唇で音を作る生徒はなかなか修正できません。「喉が開いていなければ唇は開く」「開いたアンブシュアは喉が上がって、やがて詰まったり、ヒリヒリしたりする」つまり、「開いた喉と閉じた唇」「閉じた喉と開いた唇」がセットになっているという説明と共に楽にリップスラーが出来る事を経験させます。
また、「回す」という言葉を誤解して舌を後ろに引っ張ってしまう生徒がいます。高い音を後ろに回すことは逆に舌を楽にさせ、喉も楽にさせる事になるのですが、誤解すると大変です。
声楽科の学生が副科でラッパのレッスンを受けに来ていました。「発声練習と同じだよ」と言って発声練習をさせてからリップスラーに移ったら見事に楽にコロコロと出来ました。そういう時の唇は開いていません。「音の当たり」という言葉も「感覚としての疑似閉鎖管」とか音響学で言う「管の固有振動」現象の事なのですが、そんな言葉より「ツボに当たる」という言葉のほうが感覚的でわかりやすいのです。しかし、これも唇でPu-といっているのか息の流れがツボに当たってトンといっているのか耳と感覚で区別がつかなければなかなかわかりません。そこで冒頭の「子音は前、母音は後ろ」という話になるわけです。アルファベットで「TA」と書けば母音と子音がはっきり分かるのですが、日本語では「た」なので先ずそこから話さないと分からない生徒もいます。(笑)全く言葉を使わないでレッスンは出来ません。と同時に生徒によって理解できる言葉を見つけるのも大変な作業です。練習マニュアルを決めてふるいに掛け、掬い取った生徒だけを教えていくというシステムをとっている人もいるようですが・・・私にはそれがレッスンとは思えないので悩みは多くなります。
皆さんはどの様にお考えですか?
「違う楽器なのに何故合うの?」
オーケストラにはヴァイオリンから笛、ラッパ、ティンパニまで様々な楽器があります。それらがアインザッツを合わせ、リズムを揃え、ユニゾン、ハーモニーを合わせます。振動音を発生するものは弦、リード、唇、皮などそれぞれに違っています。ガクタイ屋はどういう感覚で合わせているのでしょうか?以前にも書いたことですが、それは「響き」で合わせているのです。
響いた瞬間を合わせるのがアインザッツを合わせるという事であり、「響き」を合わせてユニゾンを合わせ、ハモっている訳です。
ある日、テュッティで始まる曲を練習している時にティンパニだけアインザッツがずれていました。あれっ?と思って振り返るといつもの奏者ではなく若い人が叩いていました。木管の人達は苛立って無言のプレッシャーをかけていますが、仕事なのでアドヴァイス等はしません。しかし、本人が気がつくまでの時間がもったいないし、仕方がないので「皮のバーンではなく響きのトーンで合わせてみて」と言うと見事に合わせてくれました。そして、いつのまにかピッチも修正されていました。
ラッパで言えば、タンギングの舌先は息の最先端ですが、唇の振動音を求めているのではなく、息の流れがツボに当たる事、つまりトーンと響く事を求めているのです。
リードが鳴った瞬間ではなく楽器が響いた瞬間を合わせようとしている訳です。
弦の人も管の人もティンパニの人もハープの人もピアノの人もみんな同じ感覚を持って合わせる訳です。ところが、カガクテキな人達は振動音(基音)で合わせるものだと堅く信じています。錯覚なのですが、カガクテキな人達はアタマが良いのでこの実践的な感覚がありません。息がリードに触れた瞬間ではなく、息がツボに当たって響いた瞬間が大事なのです。ガクタイ屋の実践的な感覚には実は科学的な裏付けがあるのですが、それはまたの機会にします。音には振動成分と響き成分があるのです。振動成分というのは言ってみれば「それぞれの個性」ですが、響き成分は合わせる事の出来る「共通な人間性」のようなものでしょう。いずれにせよ「響き」を聞く耳でアンサンブルをしなければ困ってしまいます。しかし、「響き」という事を誤解している人達、「響き」のない音を出している人達はチューナーを異常に頼ります。時々参考にするというような普通のレベルではありません。「目で音を合わせているの?」と言いたくなる程です。
こういう人達は特にある種の吹奏楽指導者に多いようです。「譜面をバズィングで出来ないと楽器を吹いたらダメ」というような有名指導者もいます。振動音なしでも息の流れがツボに当たれば響くという現象は無視されています。そういう人はリップスラーを楽にやった事があるのでしょうか?
振動音の延長線上に響きがあると信じて疑わないのです。そういう指導者の下で経験を積んだ人達は響きのある音についての感覚がないか、あるいは誤解をしているのでオケをやるのは大変です。それどころか、先日は伴奏ピアノとピッチ合わせの時に見事に高低を間違えてしまった生徒もいました。響きのない音は合わないし、ハモらないのです。ガクタイ屋ならば実践感覚だけでいいのですが、
指導者であればきちんと意識化しておく必要があるでしょう。そうでなければ生徒が困ります。
チューナーを神として今年金賞取れればそれでいい訳ではないでしょう。「響き」感覚と共に使ってもらいたいものですが、「神」になっては困ります。「カリスマ指導者」の「神」はチューナーでしたという事では生徒が後で困ります。皆さんはどうお考えですか?
「リップスラーは特殊な練習?」
金管楽器を吹く人は毎日何らかの形でリップスラーの練習をしていると思います。そして、そのやり方については「シラブルの変化を利用して・・・」という説明を受けていると思います。以前何度か書いたことですが、マジオ教本では「シラブルは変化するがスロートポジションはAhの位置であり変化しない」という説明がなされています。私は「このAhは歌唱発声のAhであって、地声(話し声)のAhではない」と書きました。そうでないとマジオ教本の説明は何のことだか理解できません。それが上手くいく人はコロコロとリップスラーがきれいに楽に転がっていきます。息の流れの微妙な変化を利用できているわけです。息の流れが仕事をしているわけです。
ところが生徒の中には「シラブルの変化を利用する」という言葉は知っていてもスロートポジションについては無頓着な人もいます。また、リップスラーは上手くいっているのに音階的なスラーは詰まりぎみで楽にいかない人もいます。さらには、せっかくリップスラーの時に良いスロートポジションだったのにタンギングする時には地声のスロートポジションになってしまう人もいます。それぞれの練習をバラバラのコンセプトでやっているわけです。「リップスラーがコロコロと楽に上手くいく状態でタンギングも音階も練習すればどう?」と言ってみると上手くいく生徒がかなり出てきます。確かにリップスラーの練習は初心者にとっては面倒くさいのでしょう。それ故に「特殊な練習」という意識があるかもしれません。どんな練習をするにせよ「歌うスロートポジション」つまり「歌うように吹く」ということを忘れないでやればいいのですが、「唇に仕事をさせる」という思いが頭の隅にこびりついているのでなかなか上手くいかないわけです。
「歌う」ということは「怒鳴る」事と違って「息の流れが力の抜けた喉、声帯を通過して響く」という事です。同様に「歌うように吹く」という事は唇、リードに仕事をさせようとする事ではなく、「息の流れが仕事をする」事なのです。つまり、唇やリードは「息の流れによって仕事をさせられている」のです。これが分かればその為のアンブシュアも「支え」という事も身体と耳でわかってきます。しかし、「リップスラーは特殊な練習」という思いがある間はなかなか理解できないようです。吹奏楽の顧問の先生は音楽の先生である場合がほとんだと思いますが、「歌う」という事をどのように理解されているのでしょうか?「歌う」という事は心の問題だけではないのです。
皆さんはどのようにお考えですか?
「息・耳・心・最終兵器」
私は生徒に対するレッスンを「息の流れが仕事をする」という考え方を基本に展開してきました。これは「リード(唇)が仕事をする」という考え方の反対の概念として言われている言葉です。どちらの考え方を基本にするのかという事は、例えば巨大な迷路の最初の重大な分かれ道とも言えます。あるいは生物進化の系統樹にある最初の大きな枝分かれのポイントとも言えます。迷路の最初の分かれ道を誤れば永久に迷い道を抜け出す事はありません。途中にはそれなりにポカポカと暖かい所もあるかもしれません、小さな花も咲いているかもしれません。しかし迷い道である事には違いがありません。いつまで経っても歯並びや唇の厚さが気になったり、いずれ行き詰まってしまいます。
この基本を全く別の話に例える事もできます。
それは、「戦略」「戦術」「個別の戦闘」という話です。ラッパを吹いて音楽をするという時に何を先ず基本戦略とするかという事ですね。「息の流れが仕事をする」「息の流れが絵を描く」という戦略のもとで戦術群を組み合わせ、訓練し、個別の戦闘を展開していくのか、「リード・唇が仕事をする」「リード・唇の振動音で絵を描く」という戦略で展開してくのかという違いは、次の「戦術群」に決定的な影響を与えるでしょう。ちなみに「戦略の誤りを戦術で補う事はできないし、戦術の誤りを個々の戦闘の頑張りで補う事はできない」というのが軍事常識です。戦地の兵隊さんがいくらがんばっても大本営の誤りを補う事などできません。天皇ですら出来ませんでした。「息の流れで絵を描く」という考え方に立った時に「歌うように吹く」という第一の戦術(感覚)に気がつきます。「息の量は?スピードは?」という考えが生まれる人たちはラッパを吹く事を《音楽》としてではなく《スポーツの一種》として感じているかもしれません。
「息の流れがツボに当たって音になる」ので息の流れの最先端である「舌先の感覚」は大変大事であり、「喉、舌に余分な力が入らない」事が「歌うように吹く」事とイコールである事も分かります。都合の良い事に「歌唱発声の喉」は余分な力の入らない喉であり、「呼気時における吸気的傾向」つまり「支え」という現象を生み出してくれます。いわゆる「本来の腹式呼吸」を可能にしてくれるのです。そして「息の流れが仕事をする」にふさわしいアンブシュアは「粘膜奏法」ではなく「唇は受け身」であり「閉じてはいるが硬くない唇」という事にも気づかせてくれます。つまりこのHPや「本」で書いてきた「戦術群」をもたらしてくれるわけです。この考え方に沿ってリップスラー、スタッカートその他諸々の基本軍事訓練(笑)を行うわけです。
戦術に誤りがあれば基本訓練のやり方も間違ったものとならざるを得ません。ましてや「訓練の為の訓練」など無駄な事、笑止千万でしょう。ソロ曲やオケ、ブラスその他の合奏曲、つまり個々の戦闘場面で役に立たない基本訓練などあり得ません。いくら個々の場面で根性を発揮して勇猛果敢に闘っても戦術群の誤りを補う事はできないでしょう。そして、それは「戦略」の誤りに帰すべきものなのです。
ちなみに戦争には核ミサイルのような最終兵器、コンピューター制御のピンポイント破壊兵器など最新兵器は次々と生まれますが、音楽には単純な道具しかありません。肉体の一部をいじってもサイボーグにはなれません。迷路の中からは抜けられません。「息」「耳」と「心」が最終兵器なのです。
皆さんはどうお考えですか?
「忘れがちなこと」
様々な学生、生徒を教えていると面白い現象に出会うことが珍しくありません。
その中の一つが舌先に関する話です。
毎日当たり前のようにタンギングをしているのでついつい忘れがちになるのですが、舌先はお辞儀をして下を向いているのが普通であるということです。
よく解説書などで舌の図が載せてある場合に舌は先端部分まで水平に書かれていることが多いようです。しかし、実際にはその様な状態にはなっていませんよね。そんな事をすれば舌は前後にピストン運動みたいな動きをしてしまいます。
案外そんな生徒もいるのでよく観察しないととんでもない事になります。
そもそも安静時の舌先の位置は下前歯の裏ですから、タンギングをしている時はその付近でいわば上下運動をしているのが普通です。しかし、音を吹き延ばしている時でも舌先が奥の方へ引っ込んでいる生徒を見かけます。
舌全体でタンギングをしているようで、舌に力が入っていることにも気がついていないのです。
本人は例によって「一生懸命吹いている」という感覚ですから気がつかないわけです。そもそも舌先は流れ出ようとする空気をせき止めている突っかい棒のようなものですから、突っかい棒をはずされた空気は唇の狭い隙間から勢いよく流れていきます。これが基本的なコンセプトです。スタッカートの時舌先は離れた後すぐに元の位置に戻るわけです。この事が当たり前に行われていない生徒も見かけます。
舌先は息の流れの最先端部ですから「気流が仕事をする」という言葉を思い出して欲しいわけです。
つまり、その空気は唇を鳴らすために流れ出すのではなく、楽器を鳴らす、つまりツボに当たる為に流れ出しているのだという事です。生徒の中にはタンギングの目的を「唇を鳴らす事」と錯覚している場合がかなりあります。アーバンでもコプラッシュでも沢山出てくるタンギングでのインターバル(跳躍)の練習をしてみると分かるのですが、そういう生徒達は唇で跳ぼうとします。
「舌先で跳べばいいじゃない」と言うのですが、喉のポジションがAhの位置ではない生徒は舌先で跳ぶのが難しくて四苦八苦しています。
Ahを歌声ではなく地声でイメージしているようです。従って舌に余計な力が入っている事にも気がついていません。
テヌートもスタッカートもスラーも喉のポジションは同じですからタンギングでの跳躍は舌先で跳べるのですが、そういう生徒はそれらを別々の〈テクニック〉と考えているようです。
皆さんはどうお考えですか?
「楽に吹く」
歌うように(声楽的な意味で開いた喉)吹くと何故楽に吹けるのかという事を
もう一度確認しておきます。
第一に、歌う喉のポジションで吹く時に支えられた息(呼気時における吸気的傾向)が生まれます。
支えられた息は力まないのに強い息にする事が可能です。
第二に、歌う喉のポジションで吹くと唇はさほど強い息ではなくても、普通の息で自然に閉じようとします。自然に閉じようとする唇の働きを利用してアンブシュアのバランスを取っています。地声のポジションで吹く時には相当強い息を出さないと唇は閉じようとはしません。当然力みが生まれます。地声ポジションで普通の息で吹く時は意識的に唇を閉じなければなりません。
だから歌うように吹くと「楽に吹ける」と感じるわけです。しかし、多くの生徒を観ていると「楽に吹いている」生徒の方がはるかに少ないのです。何故そうなってしまうのでしょう?それは「歌うように」吹かなくてもとりあえず音は出てしまうからです。
地声(話し声)ポジションで吹くと、自然に閉じる唇の働きを利用できませんから「開いた唇」
いわゆる粘膜奏法で吹く事になりがちです。そして「中低音は出ますが高い音が出ません」
「すぐにバテます」とか言い始めます。「楽に吹く」のではなく、
とりあえず「楽して吹いた」ツケが回ってきたのです。歌う喉のポジションについてはおもしろい話があります。
副科でトランペットを履修している声楽科の学生に「息を吸った時に喉は下がるでしょう?
その下がった喉のままで吹くのだから発声といっしょだよ」と言いました。
すると「あれ?どうしてウイーンの先生と同じ事を言うんですか?」ときました。
学校の制度を利用してウイーンでレッスンを受けて帰って来たところでした。
「世界共通だからどこでも同じだよ」と笑い話になったのですが、息を吸う時舌に力が入っていたのでせっかくのヒントが結果につながっていませんでした。
その事を注意しながら発声してみました。上手くいったらラッパに移行します。
すると「あっ本当だ、楽です」と喜んでいました。
「楽に吹く」というのは「とりあえず楽して吹く」事ではありません。
皆さんはどのように御考えですか?
「ニュースを聞いて・・・」
「発掘 あるある大事典�」というテレビ番組が捏造で大問題になり廃止になりました。
今日関西テレビは他にも三つの番組で捏造の疑惑を発表したようです。
実は私にも「呼吸法でやせる」というテーマで番組を作るので協力してほしいという
依頼が来たことがあります。制作会社からファックスと電話で依頼されましたがお断りしました。
テーマ自体に疑問を持ったので「私は管楽器を楽に吹く事、美しく吹く事を目的として
呼吸法を勉強しているのであって、やせるために勉強しているわけではないのでお断りします」
と申し上げました。番組自体は放映されましたが「なんだかおかしいな」と思った事を
学生に話したのを記憶しています。
捏造番組に協力した学者先生の一部が今になって言い訳をしてるのを見るとおかしいなと思います。
「ガクシャ」先生より「ガクタイヤ」のほうが正直なのかなと思ったりします(笑)
「バラエティ番組」だからいい加減でもかまわないと思っていたのでしょうね。
それにしても・・・先頃このHPの「会議室」に投稿された高校生の話にはびっくりしました。
プロの人にレッスンを受けていますという話でしたが、
《「全部息の吸い方のせいだ」と。最近では日常生活でも胸が苦しく感じています・・・。
演奏中はもちろん苦しいです。意識は吸引にのみ集中させていましたし
今思えば先輩方も皆とにかく「吸え!吸え!」と・・・。「吸引こそ全て」と
思い込んでいた位ですので・・・。》との記述にはぶったまげてしまいました。
強制深呼吸と腹式(横隔膜)呼吸のちがいが分からない悲劇です。
「どんなプロなんだろう?こんな話がまだまだ沢山あるのだろうなあ」と
暗い気持ちになりましたが、追い打ちをかけるような「肺活量信仰」の話を聞いてしまいました。
あるクラシックの歌手がTV番組で得意げに語っていました。根は同じです。
風船を膨らます事と歌をうたう事の違いが分かっていないのです。
「歌手は息を吐く前に沢山吸わねばなりません。肺活量が大事です。
その為に私は潜水トレーニングをしています・・・」この人のCDがよく売れているそうですが・・・
私にはただ大きな声で歌詞に音程をつけて棒読みしているだけに聞こえました。
なんとこの番組内では騒音測定器を持ち出して何デシベルかを計って得意になっていました。
ウソのような本当の話です。
この歌詞をこの声で聴くのなら偉いお坊さんのお経を聴いているほうが
よほど勉強になると思いました。「呼吸法とは沢山吸う事なり」ではありません。
「沢山吸う人ほどラッパが上手」という法則があるなどと聞いた事がありますか?
我々にとって呼吸法は「楽に響かせる。低い音も高い音も大きな音も小さな音も
全音符も十六分音符も響きのある美しい音で吹く、歌う」為にあるのです。
そこを間違えると会議室に投稿してくれた高校生のように健康被害にまで至ります。
プロの管楽器奏者達の肺活量と一般の人々の肺活量の数値は変わらないという調査があります。
息を吐いているときに音が出ています。息を吸っている時には音が出ていません。
沢山吸えば響いた音が出るわけではありません。ffにもppにも《響き》があります。
どういう状態で音を出しているのかという事が大事なのです。
そこで「息の支え」=「呼気時における吸気的傾向」という言葉がヒントになるのです。
「支え」という現象が逆に「息の吸い方」を教えてくれるのです。
呼吸法は息の量の問題ではなく身体のバランスの問題である事に気がつくと思います。
先日の「呼吸法講座」にいらっしゃった方々はおわかりだと思いますが・・・
近いうちにもう一度この角度から書いてみたいと思います。
「息の流れが仕事をする」
「息の流れが仕事をする」と言うとすぐに息の量だとかスピードだとかの話になりますが、
この言葉は「リードが仕事をする」という言葉の反対語として
あるクラリネット奏者が言った言葉です。
金管楽器奏者でいえばマウスピースの中で起こる出来事に当てはまります。
唇に仕事をさせる、つまり唇の振動音を求めることが音を出すための最重要事項だと考えていたら
上手くいかないことが多いという話なのです。バズィング音なしでも音が出ることからわかるように、必ずしも唇から振動音を発していなくても
音が出ているわけです。(もちろん振動音を伴う音もあります)
この前、粘膜奏法状態にはなっていませんでしたが、詰まった音しか出ないで苦しそうな生徒に
「歌っているつもりでピストンを動かしてごらん」と言ったとたんに
楽に吹けたケースもありました。
しかし、《唇から音を出すために息を送り出す》という考えに縛られている生徒は多いようです。
息の流れが狭い隙間を通り過ぎるときに、唇の振動音なしでも管内に音が発生するという現象を
無視、あるいは軽視しているわけです。
この現象を無視、軽視しながらいっぽうでは「高い音が出ない」とか
「すぐバテる」とか言っているのです。
《楽に吹く》ということを真剣に追い求めないで《金賞》には一生懸命なわけです。
もちろん唇からの振動音を伴う音もありますが、それとて息の流れによって
振動させられているわけで唇は受け身なのです。
しかし、多くの生徒は《振動させよう、させよう》とするので困ったことが起きます。
言葉で言ってしまえば簡単な話なのですが、実際は結構難しいようです。
生徒が抱いている《音に対する意識》を変えるというのは大変な作業になることもあります。以前にも書きましたが、管楽器の初心者は譜面をフレーズの集合体として見ないで
単に音符の集合体として見ていることが多いのです。
ひとフレーズ(一本の息)の中にいろいろな音符が割り振ってあると思うのではなく
一つ一つの音符を足していってフレーズが出来上がると考えています。
その為一音ずつ吹く、一音ずつ唇でつかむというケースが大変多くなります。
そこで唇に仕事をさせようとする事が多くなるようです。
《唇が音を出して楽器がその音を拡大する》さらには《唇が歌う》というつもりで吹いたりします。
管楽器教育の初歩段階で教えるべき事を教えていない現状があるようです。
息の流れが仕事をするという感覚でアンブシュアのバランスをとるのか、それとも
唇を振動させよう、させようとして息を送り込むのかという違いは大きいものがあります。皆さんはどのように御考えですか?
「閉じてはいるけれど硬くはない」
アンブシュアについての基本的なお話です。
会議室で、ある投稿者は「閉じた柔かい唇」ということが解らないという事でした。
確かにそのように思ってしまう人は多いだろうなと推察されます。
アマチュア吹奏楽の世界ではとりあえず一応の範囲で音が出るようになって、
ミスしないように音を並べる事が優先されます。
その方針のもとでとりあえず適応できた生徒がそのまま上手く成長して、
一生問題なくラッパが吹けるのであればそれに超したことはありません。
しかし、現実はほとんどの人がどこかで壁にぶつかって考え直さざるを得なくなります。
それ以前に多くの生徒がとりあえず適応すら出来ずに奮闘しています。
「音」ってなんだろう。とか「どうして音が出ているんだろう」などと考えている
暇がないのでしょう。目先にぶら下がっているのは「コンクールの結果」ですから・・・
まるで「吹奏楽文化」とは「コンクール文化」であり「物事を考えない文化」のように見えます。唇の隙間を空気が通り抜けていくわけですから唇は閉じるわけですが、
硬くなれば音が詰まってしまうか、出なくなるかのどちらかです。
話は簡単なのですが、簡単な話には結構深いものが隠されていたりします。
現今の吹奏楽文化で育った多くの生徒はとりあえず音を並べることを覚えます。
とりあえず音を出すには粘膜奏法が手っ取り早いのです。たとえば・・・
クラリネットの初心者には2とか2半の薄いリードを与えます。とりあえず音は出ます。
ところが、やがてぺーぺーと薄っぺらでけたたましい音がいやになって
3半とか4のリードを欲しがるようになってきます。
しかし、ラッパの生徒はリードを取り替えることは出来ませんから、
とりあえず音の出る粘膜奏法のままで上手くなろうとします。
器用な生徒はある程度のところまでは誤魔化せますがそれ以上は無理です。
この状態でも全国大会金賞メンバーになれます。根性で頑張ればいいようです。
このような認識や自覚がない人には「閉じてはいるけれど柔らかい唇」ということは
解らないでしょう。
中低音域はとりあえず粘膜奏法で音を出しておけばいい、高い音は唇を緊張させればいい。
という考え方でずっとやってきた生徒は「閉じてはいるけれど柔らかい唇」ということが
解りません。
低い音は「大きい穴」高い音は「小さい穴」を開ければいいと考えてきた生徒も
同様に理解できないようです。以前「ベルヌーイ効果による自励的振動」という話をした時に書きました。音声障害の患者には
それが見られない。従って正常な人よりも呼気圧が高いという報告です。
まさに「息のスピード」が必要なのです。しかし・・・
気流を利用して音を出しているのは口唇も声唇も同じ事です。
声唇における粘膜奏法とは地声で怒鳴ることです。地声で怒鳴り続ければ音声障害にもなります。
しかし口唇は声唇に比較すれば強いわけですから「音が出にくい」「高い音が出ない」ことを
「障害」と同じであるという認識は生まれません。ここから悲喜劇が生まれます。
ネット上でも十年一日のごとく「高い音が出ません」「すぐバテます」の繰り返しです。
吹奏楽指導者の役割、責任は大きいと思います。皆さんはどのようにお考えですか?
「呼吸法以前に・初歩の初歩」
「何故呼吸法などというものが問題になるのか?美しい声で歌えるようになればよい。
いつも美しい声で歌えるようになれば呼吸法も出来ているという事だ。」
と言い放った歌の先生がいます。
御説ごもっともで「全くその通りでございます」と申し上げるほかありません。
しかし、現実はそう簡単にはまいりません。
様々な生徒を見ていると先ず気がつくのが「フレーズ感覚」に関する事です。
彼らの多くはフレーズに対して息が流れているのではなく、単音ごとに息が流れています。
仮に四分音符が四個、全音符が一個という二小節のフレーズがあったとしたら、
普通の音楽家の場合、息は二小節分のロングトーンのように流れています。
音符一個一個ずつ息が流れているわけではありません。
これが基本です。その息の流れがcresc.やdim.を含んでいても一本の息である事には
変わりありません。八分音符や十六分音符混じりのフレーズであったとしても、
レガート、スタッカートが混じっていても同じ事です。
長いフレーズも短いフレーズも一本である事には変わりありません。
《息が仕事をしている》というのはそこから始まっています。
《息はフレーズの為に流れている》という事を前提としているからこそ
呼吸法が問題になるわけです。
しかし生徒の多くは呼吸法の目的を《大きな音を出すため》《高い音を出すため》
《ロングトーン競争に勝つため》だと思っているようです。
《息が仕事をしている》というのはそういう意味ではありません。
呼吸法という事柄を唯物(タダモノ)論としてブツリ的にカガク的にしか理解しようとしません。
これでは呼吸法どころか音楽そのものの理解がいびつなものになってしまうでしょう。
呼吸法などというものが問題になるのは《音楽上の問題を解決するため》であって
ブツリ的な言葉をもてあそぶためではありません。
かつて私は頭の良さげな職業のアマチュア奏者から《胡散臭い》と罵倒されましたが、
ブツリ的な言葉をもてあそぶ人達は決してこのような初歩の初歩のお話は理解出来ないでしょう。フレーズは一本の息の流れである。一本の息の流れに乗せて音が流れ、様々な表情をみせていく。
という事を前提にすると、その息を《押している》のか《流れているのか》
が大変な問題になってきます。
一言で一本の息といってもその質的な要素が問題になってくるわけです。
つまり《母音は後ろ》(喉のバランス)が問題になって来ざるを得ません。
しかし、粘膜奏法の人達はこれらを理解する事が出来ません。
地声状態の喉を《フツーの喉》だと思って疑わないからです。
「フレーズの為に流れる息」にとって地声状態の喉は《フツー》ではありません。
地声状態の喉は日常会話にとって《フツー》の喉なのです。そして・・・
「フレーズのために流れる息」にとってどういうアンブシュアがふさわしいか?
という発想をしてみる事です。
粘膜奏法を解決するにはブツリ的な対応のみでは無理でしょう。耳も必要なのです。
私自身も学生もチコーヴィッツさんのFlow Studiesを日課練習として利用しています。
Flowとは言うまでもなく息の流れです。
チコーヴィッツさんの考え方の元になっているのはクラークの考え方です。
ちなみにフリードリッヒさんもFlow Studiesを利用しながらレッスンをしていました。
以前その場に出会って偶然の一致に驚きながらもうなずいたものでした。皆さんはどのようにお考えですか?
「「ある学生との対話」
先日やって来たある金管楽器の学生とのやりとりです。
この学生は以前にもやって来て少しだけレッスンをした事があります。
幸いにも粘膜奏法ではありませんでしたが「自分の音には響きがない」「高い音も細い」等々
いろいろと悩んでいる事を訴えてきました。その時は時間がなかったので・・・
先ず見てみると強制深呼吸になる傾向があり、息を吸う時、吐く時の基本的なバランスについて
レッスンをしただけでした。それだけでも響きが改善されびっくりして喜んで帰りました。
その後試験で聞いた時も以前よりは改善されていました。
しかし、先日時間的に余裕があるときにやってきたのでちょっと詳しくレッスンをしてみました。この学生と話し合いながらレッスンをして気がつく事は、中学生の吹奏楽部時代から
二十歳過ぎの今日に至る過程の中で音や奏法に関する基本的な認識、感覚というものが
明確ではないという事でした。
こういう学生にいきなり「ベルカントモード」云々というような話をしてもしかたがありません。
習っている先生には「その汚い音をなんとかしろ」と言われているそうです。
「この曲をこういう音でこういう風に吹きたいというイメージはあるんですけど、
どんな事をやってみてもイメージどおりに出来た事が一度もありません。
私には音楽の才能がないのでしょうか」ついに自分の才能を責めてしまっています。
そういう問題ではないのですが・・・そこで、誰でも気にしている〈アンブシュア〉の話から始めました。
「世の中にはおおざっぱに言って二種類の人達がいるよね」
「正しいアンブシュアの形はこうですよ。こうして吹けば上手くなります。
後は正しいフクシキ呼吸ですよという人達。主にアマチュアに多いよね」
それに対して「息の流れが仕事をするんだよ、アンブシュアはそのうち分かってくるよ」
「息の流れを利用してるんだよ」「息の流れに音を乗せるんだよ。というような言い方をする人達は
プロの人達に多いよね」天才チックに「音楽的に吹こうと思えば分かってくるんじゃないの?
とまで言う人もいるよね」学生は大きくうなずいています。「正しいアンブシュアの形はこうですよ」と言われても肝心の
「息が流れるマウスピースの中がどういう状態であって欲しいか」についての
説明がなければ意味がありません。
この学生もその部分についての認識はきわめて曖昧です。答えに窮しています。
しかし、幸いにも粘膜奏法ではありません。
「狭いすきまを気流が通り抜けるのだから唇は開くというより閉じているよね。閉じてはいるけど
低音域は低音域なりに高音域は高音域なりに唇の中央先端部が硬くなったら困るよね」
「マウスピースの中に隠れて見えない部分が硬くなれば開閉運動がスムーズではなくなる。
音に響きがなくなり、出にくくなったり、詰まったり、ハズしたりする事が多くなるよね」
だからアンブシュアに関する一番の関心事は「閉じてはいるけれど余分な緊張は
イヤだということだよね」
「だから、どういう閉じ方をしながら吹くと役に立つかという話になっていくよね」
この事を押さえておかないと何のために「形」を論議しているのか分かりません。
具体的に「閉じる」とはどういう感覚なのか「余分な緊張とかリラックスしなさい」とは
どういう感覚なのかを様々な練習を通して身体と耳で理解する事になるわけです。そこで彼が現在やっているエチュードとか曲に即してレッスンをしていきました。
実際に音を出さないで緊張だのリラックスだのと言っても意味がありません。
学生はひとフレーズ吹くたびに歓声を上げています。
《息の流れを利用するためのアンブシュア》はどういうものか?という考え方、
感覚を持てば分かってきます。
《正しいアンブシュアを作っておいて、そこにフクシキで息を吸って吹くのがタダシイ》などという
自家撞着な堂々巡りな考え方ではなく・・・
《息の流れを利用するためのアンブシュアって何?》という発想です。
根本認識が問われているのです。そして・・・
《息の流れ》の途中で忘れられているのが《喉》に関する感覚、認識です。
息は唇のすきまを通り過ぎる一瞬前に喉を通りすぎているのです。
《高音域にふさわしい喉のバランス、低音域にふさわしい喉のバランス》はあるわけです。
《歌うように吹く》というのはそういう話なのです。
その後はこの学生のうれしい独演会になってしまいました。そしてレッスンが終わっても、
今まで繋がらなかった色々な経験、認識、感覚について滔々と語り始めました。
「歌うより先に唇で音を探していました」「低い音は大きな穴、高い音は小さな穴で吹けばいい
と思っていました」から始まって、今までの勘違いを吐き出すが如くうれしそうに
しゃべり続けています。それは帰りの電車の乗換駅で別れるまで続きました。(笑)皆さんはどのようにお考えですか?
「正月休み明け」
先日、休み明けにやって来た学生の状態にびっくりしました。
この学生は昨年後半にはどんどん上手くなって、今年はおおいに期待していました。
ところが・・・
アンブシュアが開いてしまって上唇で音をつかみにいっています。
そういう吹き方を続けたおかげでいきみが現れ、強制深呼吸に逆戻りしています。
全身のバランスが狂ってしまっているわけです。泣けてきました。そこで・・・
本人に休み中にどんな練習をしたのかを聞いてみると
「休み中はずっとコルネットだけで練習していました」との事でした。なるほど、それで納得です。
コルネットやフリューゲルは実はトランペットよりアンブシュアが開きやすいのです。
開きやすいのですが、音は何となく柔らかいのでアマチュアの場合だと
「こんなものかな?何となくいい音だ」と思ってしまう場合が多いのです。
一曲の中でラッパとコルネット、フリューゲルを持ち替えした時に
苦労した経験を持つ人は多いでしょう。
コルネットやフリューゲルを吹いた後にラッパを吹いた場合、音が開いてしまうという経験です。
コルネットやフリューゲルは取りあえず何の注意もなく吹けばラッパより開きやすいのですが、
それに気がついてない人はかなりいます。彼の場合も最初からチェックのし直しです。「息は音符ごとに流れるのではなく、フレーズに対して流れているんだよ」
「楽譜は四分音符や八分音符だけど息は白玉なんだよ」からはじまって体のバランスの再チェック、
歌う喉と開かないアンブシュアの関係の細かい確認作業etc・・・
ラッパを上手くなる過程は一筋縄ではいきません。一進一退です。
耳と共に身体に《しつけ》をしていかないと安定した状態にはなりません。
《しつけ》には細心の注意と勇気と耳が必要です。最近は「ゆとり教育」に対する揺り戻しが起きているようですが、そもそも頭の中や机の上で
考えた大甘の方法論が実際の現場で通用するわけはないのです。
「楽器を換えれば」「マウスピースを換えれば」「歯をいじれば」上手くなるという
幻想論に似ています。その前にやる事があるはずですが・・・
希望的観測と現実を見誤ったらエライ事になってしまいます。
ちなみに、私はベルカントモードの有用性に気がついてそれを文章にする前に意図的に反対の意見を
探しまくって本を集めたり、音を聞いたりしました。
上野公園の警察の立て看板ではありませんが「気をつけよう、甘い言葉と暗い道」(笑)皆さんはどのようにお考えですか?
「もう一度・・・喉・舌とアンブシュア、呼吸筋」
「喉を楽にして吹きなさい」「上半身に力を入れてはいけません」「息の支えが大事です」
「上唇に力を入れてはいけません」等のアドバイスは誰でも聞いた事があると思います。
しかし、中には先生に言われても自覚のない人もいます。
そして、これらの事柄を個別に解決しようと思ってもなかなか難しいでしょう。
これらは関連性があるので個別に解決するのではなく、まとめて解決する問題なのです。
関連性があるのであればどこの切り口から入っても結果は同じだと理屈の上では言えます。
しかし、実際は「会議室」の書き込みのように十年一日の如き悩みの繰り返しです。
先ずそれぞれのアドバイスの意味がよくわかっていないのです。アドバイスする先生自身が
誰か偉い先生とか天才プレーヤーに言われた事をそのまま言っているだけで、
意味がわかっていない場合もあります。困った話なのですが・・・「息の支え」とはどういう現象なのかよくわからないで使っている事が多いのが実情です。
「本」にも書きましたが、それは「吸気筋の呼気時における吸気的傾向」のことを言います。
簡単に言えば、吸気筋の代表の横隔膜が呼気時にも吸気時と同じ反応を示す事を言います。
普通の場合、横隔膜は息を吸う時に収縮し上腹部が膨らみ、吐く時には弛緩して凹みます。
ところが、「支え」のある状態では息を吐いてるにもかかわらず上腹部は凹まずに逆に膨らみます。
横隔膜は見えませんが他の筋肉の反応でどの様になっているかがわかります。
上腹部の反応は上記のとおりですが、下腹の腹斜筋、臀筋、脊椎伸筋等が
吸気時と同じように働いているが分かります。
横隔膜の反応は他の筋肉の反応で語られる事が多いので錯覚しやすいのです。
単に「腹筋に力を入れて」いるだけなのに「支え」と錯覚してしまうケースが多いようです。それでは「息の支え」という現象が起こる時はどういう時でしょうか?
それは「喉を楽にして吹きなさい」という事と連動しています。その時に「支え」が生まれます。
一定の吹きやすい音域を喉を楽にして吹ける人も、高い音域、特に低い音域、ffあるいはppの時に
力んでしまうケースはよくあります。これでは困ります。
そこでヒントになるのが本来の「ベルカント」です。
どの音域でも「喉を楽にして」歌う技術だからです。
つまり、「歌うように吹く」事が「喉を楽にして吹く」につながるのです。
「歌うように」と言うとオペラ歌手のように大きな声で歌うのかと勘違いする人もいますが、
基本的な発声の問題であって、「地声」で怒鳴る事ではありませんよというふうに
考えていけばわかります。
高い音域でも実声で歌えという話ではなく「ファルセット」(支えのあるファルセット)が
分かればいいのです。話し声(地声)と歌声は喉のバランスが違っている事を理解することです。
「喉を楽にして吹きなさい」という事は「歌うように吹く(疑似発声)」という事であり、
それが「息の支え」という現象を生み出しているのです。
上半身の力が抜けているのに気がつきます。
喉と舌は繋がっているので舌だけ注意してもなかなか上手くいかない人は沢山います。一方で「歌うように吹く」ことがアンブシュアにも大きな影響を与えています。
「高音域で上唇に力を入れてはいけません」「リラックスするんだよ」といわれても
解決できないどころか初心者は何の事か理解できない場合がほとんどです。
高音域では「回す」という事で「上唇が楽に」なるのでそのアドバイスが理解できるのです。
しかし「本」にも書いたように粘膜依存型地声アンブシュアでは
「歌うように吹く」事は不可能です。単純に吹き込んでいるだけです。
いわゆる「開いたアンブシュア」と「歌う喉」は共存できないのが分かると思います。
取りあえず音を出す為に「開いたアンブシュア」で、後は「根性」に頼るという人もいますが
「上達したい」「つぶれたくない」のであれば地声アンブシュアはアウトですね。
歌う喉のバランスで息が流れる時は唇は自然に閉じます。低い音域でも地声ではなく
「胸声」のバランスであれば開かなくても上唇は硬くならないので低音域は響きます。
地声の喉のバランスでは無意識に唇は開きます。開きぎみにしなければ音が出ないからです。
その状態から知識だけで閉じようとすれば余分な力が入って音がおかしくなります。
喉が地声のままでアンブシュアだけ知識でいじっても上手くいかない場合が多いのはその為です。
高音域でも「支えのあるファルセット・頭声」のバランス(回す)であれば上唇の力は抜けます。
先生や名手の言っている事が身体で理解できます。
これらの練習に大事なのが「耳」です。「耳」で判断する事を忘れたら
身体で理解する事が出来ません。
美しい音を沢山耳にする事と実際にレッスンを受ける事が不可欠です。
その人に合ったアドバイスはやはりレッスンでじっくり聴いてもらわないと無理でしょう。
ただ単に言葉だけを追っかけても勘違いするだけだと思います。皆さんはどのようにお考えですか?
「凡人の王道 聴く・歌う・考える・実験する」
「地声」というのは普通の「話し声」のことです。「話し声」は「歌声」に比べたら平坦です。
なにも意識することなく普通に声を出しています。
2オクターヴも3オクターヴも使って大きな声で会話する人はいません。
地声のための喉のバランスは日常会話のためのバランスなので広い音域を
カバーすることができませんし、大きな声を出すのにも適していません。
地声のまま大きな声を出すと怒鳴り声になります。
毎日怒鳴り声を出していれば弱い人はすぐに喉に障害が現れてしまいます。それとは逆に・・・
広い音域をカバーしながらマイクなしで《響く声》で《歌うため》に発達したのが
17,8世紀のいわゆるベルカントです。
初期の頃はベルカント発声のことを逆に《作った声》と呼んでいたという記録もあります。
「地声・話し声」を自然な声とする立場、耳からすれば当然そうなるでしょうね。
しかし、人は何らかの歌を歌うために広い音域が必要だったり大きく響かせたかったりする時には
部分的にベルカントの要素を意識的あるいは無意識にせよ取り入れています。
たとえば・・・
低音域は地声なのに高音域は無意識のうちに頭声《的》に発声しようとしたりします。
そして、この頃は少なくなったようですが、
「低音域は地声で、ある高さから頭声にチェンジするのだ」という確信犯的な人もいます。
しかしこれでは遅かれ早かれ壁にぶつかったり、響かなくなったりします。
だいいち美しくないのに!!という耳の価値観はこの際横に置いておきます。(笑)
地声をほったらかしにしたままで頭声だけを追っかけても破綻を来すのは当然でしょう。
だから全音域にわたって《ベルカントモード》で歌う必要があるわけです。
私が「本」の中で単に《喉を楽に》ではなく《喉を自由に》と書いた意味の一つです。
我々が管楽器を吹く場合に知っておいた方がよい《便利な事柄》です。
喉を通過する息の流れは呼吸筋のバランスに裏打ちされ、唇、リードのすきまを通過します。
喉のバランスの違いは呼吸筋のバランスやアンブシュアのバランスの違いでもあります。従来、管楽器の教育は「正しいアンブシュア」と「フクシキ呼吸」が二本柱であり、喉に関しては
「喉を楽にして吹きなさい」という一言で片づける名人さえいました。
それだけで上手くいく人ばかりであれば苦労はいりません。しかし、現実は・・・
「フクシキ呼吸」という言葉の中身さえ人によって全く違っていたりするのでやっかいです。
そもそも演奏技術の歴史は名人、天才(先駆者)が切り開いてきました。
我々凡人は他の事柄同様、「喉を楽にして吹きなさい」という言葉も分かったようなふりをしないで
その裏に隠されたものを探ってみる必要があるのです。すると・・・
逆に「アンブシュア」に関する事柄や「呼吸筋のバランス」に関する事柄が見えてきます。
そこに関していろいろなヒントを与えてくれる先駆者もいます。「こぼれ話」に書いたとおりです。
結果、唇や顎、歯に対する《負担》も全く違っている事に気がつきます。管楽器と歯の関係に関して書かれた有名な本も「地声モード」を前提として書かれています。
この事に関しては過去の「こぼれ話(ブレーキとアクセル・母音の位置)」に書きました。
アンブシュアを歯や顎で説明する事の限界があります。喉のポジション・動きのちがいが
顎に与える影響(後述)に対する言及はありません。
「地声モード」を前提とすれば歯について悩む人の範囲はぐっと広くなるでしょう。
逆に言えば、あの本はいかに地声モードを前提とする人達が多いかという事の反映とも言えます。
いっぽう、私の知るかぎり歯医者さんの世界に《歌う喉》を前提に考える人はいません。
もしそんな事を言えば「胡散臭い」とまるで麻原彰晃呼ばわりされたり、
そんな事に理解を示したりすれば「取り巻き」とののしられるだけでしょう。これが現実です。
これでは《本当に歯に問題がある人とそうでない人との区別》がつかなくなって、
ついには関係ない人まで歯に原因を求め歯で悩んでしまいます。
あくまでもアンブシュアを歯や顎やアパチュアで説明しようとして、逆に歯や顎が痛くなったり
する人も現れます。私が知っている学生さんもその一人です。
ちょっと頑固者ですが根はマジメなヨイコです。しかし、病人がまた一人誕生しました。
スター誕生ならいい話ですが・・・またまたファーカス本の話になってしまいますが、
ここでは「前歯の上下を揃えなさい」となっています。
「顎を突き出すのは自然であり、大きく豊かなのびのびとした音のための絶対条件」としています。
同時に「この顎の突き出しには判断力と繊細さが必要である」と注意書きも述べられています。
しかし、せっかくここまで書いたのに、この後マウスピースや楽器の角度のカガクテキな
正誤論になってしまいます。ハナシがとんでもない方角に進んでいきます。
せっかくそこまで書いたのに、ああそれなのに、それなのに・・・(ちょっと古いか?)
ザンネン!顎の話をブツリテキにのみ説明しないで生理的に説明すればよかったのに・・・
「顎を突き出す事は自然な動作である事の例」として、こともあろうに・・・
セロリを噛み切る動作を挙げて説明しようとするなんて・・・そうじゃないでしょ先生!
以前書いたように《天才というのはやっている事は素晴らしいのに、言っている事をそのまま受け
止めるとかなり危ない場合があります》という例の一つだと思います。
顎の動きを喉のバランス・動きとの関連で説明すればよかったのにと思います。というのは・・・
まず出しやすい中音域の声を地声で出してみます。受け口でなければ下前歯は自然に
下後方に開いています。ところが、同じ高さでその状態から喉をベルカントモードにしていくと
下前歯は前に出るように開きます。
ファーカス本の言うところの顎の突き出しが《自然に、意識せずに》行われるのです。
能動態と受動態を間違えたら大変な事になります。それが顎関節の負担のきつさです。
開き自体も地声の時よりちょっと広くなります。これを《突き出し》と表現してよいのでしょうか?
自分では《突き出している》という意識がまったくありません。ただ《歌っているだけ》です。
そして高音域にむかって《回して》いくと下前歯は自然に下後方に落ちていきます。
そこから低音域にむかってベルカントモードで下降してみます。
顎はまた歯がそろう方向に自然に前にもどっていきます。
地声モードで吹いていればこれらの自然な動きを《意図的に》行わなければなりません。
顎関節に負担がかかるのは当然です。ベルカントモードの人も意図的に行えば負担がかかります。
顎を自分の意志で動かしてやろうとするのは間違いだと思います。唇同様受け身なのです。
ファーカス自身が《判断力と繊細さが必要である》というのはよくわかる話です。せめて
《歌う事は自然であり、大きく豊かなのびのびとした音のための絶対条件》と書いてあれば・・・
私は顎関節に負担をかけるのはキケンだと「本」に書きました。
変な事をしないで楽な状態にしておけば喉のバランスに応じて自然で微妙な動きをしてくれます。
顎関節と自律神経の関係に詳しい先生はいらっしゃいませんか?
発声の先生は頭声時に「顎を捨てなさい」と言うぐらいです。大変よくわかる言葉です
下顎を突き出して発声なんかすれば喉に力が入って声帯は悲惨な音を発します。
素人発声の典型です。顎関節に負担は禁物なのです。
【何らかの事情で喉を切除して食道発声が必要な人は下顎を突き出して食道の中に空気を入れます】
《歌う喉》が教えてくれる顎の動きは自然に起こる出来事なので負担がかかりません。
そしてアンブシュアは「開かない」のでアパチュアは「変わらない」のです。
なぜなら・・・
低音域でも母音の位置がベルカントモードの胸声の位置にあれば唇は開かないのです。
母音の位置が前に出て喉が地声モードであれば唇は開こうとします。
地声モードの喉は開いたアンブシュアを導きます。当然高音域では締め上げる事になります。
高音域で《回せば》速いスピードで息が流れているのに上唇は硬くなりません。
母音の位置(喉のバランス)とアンブシュアは関連性を持っているのです。
「地声モード」で広い音域に対応しようとすればアンブシュアに支障をきたしてしまいます。
その意味で17,8世紀のベルカントは大きなヒントを与えてくれています。先日、ある高校生はしばらくファルセットで発声練習をしてからリップスラーに移りました。
「アンブシュアを先に頭の中で決めつけないで、今みたいに歌いやすいアンブシュアで吹いて
みたら?」という私のヒントを理解しようとしてくれました。
すると、はじめて滑らかに音が転がっていきました。
「唇が楽になりました」と笑顔です。これがないと前に進めません。こういうレッスンもあります。
この生徒は《知識として知っているアンブシュア》を優先させた事によって余分な
硬さがあったわけですが、本人には自覚がありません。
「タダシイ事をやっている」と思っています。しかし論より証拠です。
歌う喉の動きを察知し、それを優先して逆に楽なアンブシュアに気がついたのです。
「歌うための喉」がもたらす「支えられた息」「楽な舌」その他、関連性を無視、軽視して
アンブシュアの改善は無理です。それは《耳》と共に行う練習です。しかし・・
それらをまるで親の仇のように無視したり、軽視したりする人はあの学生さんだけではありません。
素晴らしくカガクテキな《根性論》だと思います。
それにしても、人間の身体というものは不思議なものですね。皆さんはどのようにお考えですか?
「ボーイズ ビー あんぶしゃー??」
もう随分昔の話です。G大ラッパ会の定例飲み会で、ある大先輩の名文句です。
(私は学生時代に某オケでこの大先輩にはじめてトラで「春の祭典」に使っていただいて
しびれた思い出があります。その為に買ったスコアは今もあります。指揮者の表情まで覚えています(笑)
「大先輩は上手いなあー!!それにひき換え俺はなにをしてるのだ」と思ったものです・・・)
今日の話はその事ではなく・・・
それからしばらく後のラッパ会の二次会での話です。
ワイワイと話をしていますが、ついついラッパの吹き方の話になってしまいました。
あの曲、このフレーズからあの名人、この名人、あの先生、この先生の話になります。
話があの先生に及んだ時、この大先輩が笑顔でビシッとオチを決めてくれました。
「あの先生はボーイズ ビー あんぶしゃー だからね!」
これには一同大受けでしばらく爆笑が止まりませんでした。涙が出るほど笑い転げました。
というのは・・・
あの先生は《あんぶしゃー論》の大家で、「あんぶしゃー さえ正しければ上手くなる」
という勢いで教え、迫ってくる先生だったからです。もちろんとびきり頭の良い先生です。
我々頭のワルイガクタイの生活実感から言えば「そんな単純なハナシじゃないでしょう??」
というのがみんなの心の中にあるわけです。でも権威とリクツにはかないません。
この大先輩の「ボーイズ ビー あんぶしゃー」は実に絶妙でした。
権威とリクツでは勝てないけど毎日の実感はちがうんだという共感が受けたわけです。
オチを説明するほどダサイことはありませんが・・・私のアンダーラインだらけの「ファーカス本」をあらためて読んでみました。
《いつでも唇の開きをオーボエ・リードの先端のような形にしておかなければならないが、
このひらきの大小は、最高音と最低音の間の音に応じてかなり変化させる必要がある》
《音のピッチを決めるのは、このひらきの横幅であるといってまちがいない》
《声門はバルブとしてコントロールするべきだ・・・・たった一つのポイントだけが
全開から全閉までの完全な融通性を持っている事がわかる。そのポイントは声門である》
こんな事を真に受けて練習したらどうなるか・・・
オソロシイので他のアンダーライン部分は割愛します。
しかし、このファーカス本に依拠し、呪縛にとりつかれている人達もいます。天才というのは往々にして「やっている事と言ってる事がちがう」ものです。
やっている事は素晴らしいのに、言っている事はそのまま受け止めると
かなり危ない場合があります。
天才にレッスンを受ける時は注意深く、耳を使って、
カンカク的に受け止めないと大変な事になったりします。
ところが、世の中には「自分は天才だと思いたい人」や「天才に習えば自分も天才になれる」
と思っている人達がいます。このたぐいの人達は天才の言葉をそのまま真に受けたりします。
悲劇の始まりですが、原因は本人にもあるのです。
エピソードはたくさんあります。言い出すとキリがないのでまた別の機会に・・・それにくらべると「ボーイズ ビー あんぶしゃー」は名文句だったと思います。
私が「必殺粘膜奏法」とか「粘膜依存型地声アンブシュア」と言ったのにはルーツがあるのです。
私が言いたいのはアンブシュアだけ取り上げて云々していると大変な事になるということであって
アンブシュアなどどうでもいいと言いたいわけではありません。
呼吸筋、喉、アンブシュアは関連しているのだから切り離して論ずるのはキケンです。
と言いたいのです。リップスラーの練習、タンギングの練習一つ取ってもそれは説明できます。
どんな練習でも同じ事です。皆さんはどのようにお考えですか?
「すきま産業?」
かつて「ファーカスの呪縛」とか「アパチュアから考える人」等の「こぼれ話」で書いた事ですが、
いまだに唇のすきま(アパチュア)で音の高低を説明しようとする人達がいるようです。
ファーカス本に拠れば金管楽器の低い音と高い音はすきまの広さで説明されます。
『低い音から高い音へ、広いすきまから狭いすきまに変化していく。そしてその形は相似形である』
その根拠としてオーボエのリードのすきまを挙げています。ところが・・・
以前、私は友人のオーボエ奏者に質問しました。
「すきまは変化するの?オーボエの世界では変化すべきだと言って教えるの?」
「それはないよ。そりゃあ高音域で多少狭くなってる事はあるかもしれないけど、
そんな事言ったら高い音が細くなってしまうもんね。詰まっちゃうよね」
「すきまは変わらない。変えないと言うのが当たり前だよね」
当然の話ですが、我々ラッパ吹きと全く同じ見解でした。思ったとおりでした。だからこそ
その為にはどういう事を考えて練習すべきかという事になります。
奏法の各要素、呼吸法、喉、アンブシュアを分割して論議するのか、
それとも関連性に着目して楽に吹こうとするのかという分かれ道にある話なのです。ちなみにこのオーボエ奏者の師匠はシカゴの名手スティルさんです。因縁話のようですね(笑)
ファーカスのアパチュア論は同じオケのオーボエ奏者によって否定されてしまっているのです。
にもかかわらず「ファーカスの本に書いてあるのだからタダシイ」と信じ込んで
四苦八苦している人もいるようです。
このアパチュア論議のメリットをあえて挙げるとするならば・・・
「いかにももっともらしいのですぐわかった気になる」というところでしょうか?
リクツの為のリクツは便利なのですがキケンでもあるという見本のような話です。いっぽう、東邦音大で私が教えている学生諸君との会話です。
「音の高低を唇のすきまで説明しないとしたら他にどういう話があるかな?」
ややしばらくあって学生が答えました。
『シラブルで説明する話があります』
「そうだよね!!それをもう一歩進めて《スロートポジション》という言葉も加えて補強したのが
マジオ教本の説明だったよね。そしてさらにはティボーさんの喉の関与、高い音と
頭声の関係の説明が出てきたよね。シラブルから後の話は息の流れとの関連話だよね」
「詰まるところは《歌うように吹く》と云う事《から始まる》ワケなんだよね」
「どの管楽器にも当てはまるから普遍的でもあるし、音楽表現にも直結しているので
実践的なんだけれども、耳とかトレーニングというような音大生にとっては
当たり前の要素が不可欠なので敬遠されるのかもしれないね。
あるいは、ひょっとして歌う事に抵抗があったりして・・・?」
『でも、それが理解できないと楽に吹けないじゃないですか!!!』
「そうなんだけどね。楽に吹くという事よりも取りあえず
リクツとしてのわかりやすさが好きなんじゃないの」
『エーッ そういうの ヘリクツって云うんじゃないですかー?』一同大笑い。マジオ氏にしてみれば単にシラブルという言葉だけでは説明しきれないというのが実感だったので
《スロートポジション》という言葉を入れて補強したと思います。
何の説明もなくシラブルといえば《話し声のシラブル》を思い浮かべてしまうからです。
私の場合、最初から「話し声と歌唱発声は喉のバランスがちがう」という事実を前提にしています。
地声(話し声)で歌う事を前提にしていません。
声楽的な意味での「開かれた喉」は「支えられた息」とセットになっているので
「楽に吹ける」のです。息の流れが唇に影響を与えているのです。主客転倒は困りものです。
マウスピースを過度に押しつけなくても、唇を締め上げなくても高い音はでます。
リードを過度に噛まなくても楽に音が出ます。だから「すきまは変わらない」わけです。
ファーカス流のアパチュア論の呪縛から解き放たれてはじめて見えてくる世界もあるのです。声帯のすきまの変化で声の高低を説明する人がいるでしょうか?そんな発声の先生はいません。
たしかに歌声も金管楽器も二枚リードのすきまを息が流れています。しかし・・・
歌手もラッパ吹きも音を出している時に気にしているのは身体の一部である
声帯とか唇そのものの《状態》と《音》です。すきまの事ではありません。
それが毎日の生活実感です。声帯のすきまをイメージしながら発声練習をする歌手はいません。
《息の流れに声(音)をのせて歌う》のです。《声帯(唇)で歌っている》わけではありません。
この感覚(脳ミソ)が声帯や唇の状態に微妙で致命的な影響を与えているのです。
ラッパ吹きはマウスピースの中の唇そのものの状態に関する情報が欲しいのであって、
すきま情報が欲しいわけではありません。隔靴掻痒とはこのことです。
リクツを出してくるならば、フツーのガクタイ屋の生活実感に合わせて出して欲しいものです。
天才がたまたま言った言葉を金科玉条と仰いで中途半端な《啓蒙》など要らないと思います。
まるで《虎の威を借る狐》みたいな話ですね。自分の頭で考えて実験すべきです。
しかし、世の中にはどうしても「すきま」で説明したい人達もいます。
なにか「すきま産業」で一儲けをたくらんでいるのでしょうか?皆さんはどのようにお考えですか?
「過剰な自尊心、思考停止と共同幻想」
以前「会議室」へ歯に関する投稿があり、最近もメールで様々ご質問やご意見を頂きました。
中には歯列矯正を始めたけれど痛くて三分も吹けない。とか・・・
歯並びはいったんよくなったけれどまた元通りになってしまった。とか・・・
まるでダイエットに対するリバウンド現象みたいな話もありました。
まさかお医者さんの《治療》にもかかわらず、そんな事が起こる事は知りませんでした。
患者を《治療》をするからには、そこになんらかの《障害》《疾患》等があるわけです。
しかし・・・
《演奏障害》に対する《治療》にもかかわらず「多少歯並びが悪い」と「極端に歯並びが悪い」
との区別は《患者》(演奏者)の主観に依拠しています。つまり・・・
ある人にとっては演奏障害とならない程度の出っ歯も、ある人には演奏障害と感じられています。
何をもって《障害》と定義し、認定して《治療》がなされているのでしょうか?そこで、ネットその他の情報も私なりに聞いて回りました。すると・・・
驚いた事に、自ら典型的な粘膜奏法の症状を訴えながら
他人の歯の治療をなさっている先生もおられました。
こういう現状では、本来の《健康とか美容》の為ではなく《演奏障害の克服・除去》とか
《演奏技術向上》の為に歯の《治療》をする事は
「運だめし」の域を出てないと言わざるを得ません。
つまり、今のところ全面的に患者の自己責任で行われるべき《治療》だと思われます。世の中には歯を削ったり歯列矯正をすれば上手くなるはずだと「過剰」な期待を持つ人や
「歯を直せば絶対上手くなる」と「単純」に信じている人達が少なくないという現実があります。
しかし・・・
何故「歯」に対してその様に過大な責任を負わせるのでしょうか?
「歯」以外にもアンブシュアに影響を与えているものはあるのです。
自分の《歯の責任》を問う前に、自分の《脳ミソに落ち度》はないか?
と問うてみる事も必要ではないかと思います。
ひょっとして何か大事な事を忘れてはいないか?とか・・・過大な幻想を抱く人々の多くは「正しいアンブシュアとフクシキ呼吸で吹けば上手くいく」
という一見わかったようでわからない、《もっともらしい》考え方をしています。
「正しいアンブシュア」はカタチや寸法等、いかにもわかりやすい用語で説明されて、
なんとなくカガクテキに納得した気になったりします。
目に見える計測可能な諸要素のみで説明されている場合が多いのはご存じのとおりです。
「フクシキ呼吸」にいたっては珍説を含めてさまざまな説が流布されているのが現状です。
もう一歩ちょっとその先へ突っ込んで考えたほうがいいと思います、《もっともらしい論議》に従えば、アンブシュアのあり方を決める為には、先ず目に見える
生まれつきの唇、歯並び等が最重要な案件にならざるを得ません。したがって、
生まれつきどういう唇が有利か?生まれつきどういう歯並びが有利か?という話に
関心が集中してしまう人達が出てきて当然でしょう。そこには、
喉、舌、呼吸筋のあり方とアンブシュアの関連性という要素〈すら〉抜け落ちています。
欠陥ソフトがハードに対して過大な要求をしているようなものです。「息の流れのあり方がアンブシュアのあり方に《逆に》大きな影響を与えている」という事実と
「どういう音を望むのか?」という事、「どういう場合にどういう音で練習すべきか?」とか
「どういう音がアンブシュア形成に対して危険か?」等々・・・つまり「耳」の問題があります。
この大事な要素に関しての無知、あるいは無視、あるいは勘違いという問題があるのです。
「息の流れのあり方とアンブシュアとの関連性」を「耳」と共に理解する事は
実践的な要素なのですが、もっともらしい論理が好きな人達にとっては逆に難解のようです。
というか・・・そんな話は聞く耳を持ってはいません。
かつては「禅問答のようだ」と評された事さえあります。
気流に対してアンブシュアは受け身であるという状態を経験した事がないのでしょうか???それではひるがえって、幻想を振りまいているのは実際に治療をする歯医者さんなのでしょうか?
私の知る範囲では「歯列矯正等の治療をすれば必ず上手くなる」と言い切る歯医者さんはいません。
しかし、「歯の治療をする事で上手くなる」ように思わせる歯医者さんは沢山います。
つまりこれは《共同幻想》なのでしょうね。
《おおざっぱでもっともらしい論理が好きな》人達と
《歯の形状は、よりよいアンブシュア形成に決定的な影響を与えているはずだ》
と信じている人達が作り上げた共同幻想なのでしょう。
《おおざっぱでもっともらしい論理が好きな人達》は論理を積み上げていくのではなく、
各々個別の論理を横に並べているだけだったりします。「会議室」に投稿されたある歯列矯正経験者の言葉です。
この方は歯列矯正を経験しながら歯列矯正を推進した方がいいとの立場で投稿されています。
そして、その立場でありながらも・・・・
『確かに、アンブシュアを再構築し、体から無駄な力が抜けるまで、
半年程度はまともに音が鳴りませんでした。はっきりいって、やりなおしでした。』
『歯並びが良ければ上手いとは限らないし、良くなっても吹奏法を改善しなければ
何時までたっても楽器は鳴りません。そういう意味では、運だのみなのも否定できません』
まさに経験者ならではの率直な本音だと思います。つまり・・・
「楽に吹きたい→楽に響く→上手くなる」という過程には「奏法に関する勘違いを是正する」
という過程が不可欠であるという事をおしゃっています。
当然のお話です。納得できます。
逆に「奏法に関する勘違い」をほったらかしにしたまま、いきなり「歯の問題」と結論づけて
治療をしてもらったたけれど「元の木阿弥」になってしまった人を何人か知っています。
ハードを加工してもソフト如何によっては期待したような結果を得られないのは当然です。
アンブシュアという現実(現象)は様々な要素で構成されているわけです。
歯だけに着目するのではなく、様々な要素の《関連》の中で
「歯」という要素の重要度を正当に評価する。というのが健全な脳ミソだと思っています。先ず、唇や声帯、リードは「微妙な開閉運動をしながら振動音を発生している」という認識が
ありや?なしや?という問題があります。
振動音なしで開閉運動だけでも音は出ます。この事実に着目するだけでも目は開けます。
「気流が仕事をする」という事実をどう受け止めるかは大事な話なのです。
「ガレスピーのほっぺた」で書いたように・・・
風船を膨らますように吹く事と、歌うように吹く事との区別を
分かろうとしない人達の論理はおおざっぱでキケンとしか言いようがありません。私の経験では、見た目大変きれいな歯並びの生徒がなかなか上手くならなかったり、
いっぽうで、出っ歯で乱杭歯の生徒が学年で一番上手くなったりしました。
「奏法に関する勘違いを是正出来るかどうか」という事の重要性がわかります。
ここをすっ飛ばしていきなり「歯のせいにする」ことは宗教かイデオロギー・・・?
たとえば・・・
高い音が出るためには「微妙な開閉運動」を保証すること、つまりマウスピースの中の上唇が
硬くならない(余分な力が入らない)事が先ずは不可欠条件です。
そして、それは喉、舌、呼吸筋のバランスとの連携で実現されるのです。宗教とは無関係です。
しかし、勘違いした人達は「唇で高い周波数の振動音を《出す》事」に懸命です。
その結果、迷い道に入っていきます。なかにはいきなり「歯のせい」にする人もいます。
「歯」が《演奏障害》の原因であると決めつけてかかる人が現れるわけです。
「奏法改善」のためにいきなり「歯の治療」をしようとするわけです。「力関係を改善するためにいきなり核保有宣言をする」という拉致王朝の発想を思い出します。
短絡的、自爆的発想の見本です。その王朝の南では「竹島も対馬も我が国のもの」という
短絡的反日感情と過剰なる自尊心に身悶えしている人達もいます。
南北《共同幻想》は「過剰な自尊心」と「思考停止」×為政者の「保身」の産物でもあります。《楽に吹きたい→楽に響く→上手くなる》という奏法の問題は感情論でも禅問答でもないし、
ましてや政治問題でもありません。(笑)
何か大事な事を忘れちゃいませんか?皆さんはどのようにお考えですか?
「音のはじまりは響き?振動音?」
先日、某G大の指揮科の試験シリーズ終了後一、二年の学生達と話しました。
毎年の事ながら、学生諸君はさまざまでガクタイ屋としては大変オモシロイです・・・
そして・・・ところが・・・
「打点ってなに?」という話に対してポカーンとしている人が多いのです。
「打点の意味するもの」というのは指揮者の原点、第一歩だと思うのですが・・・
「せーのー!トーン」という打点は我々ガクタイにとって何か?
という事について学生さん達は知らないのですね。イメージが、意識が全くありません。
我々ガクタイは、たとえばティンパニであればバチが皮に当たった瞬間が打点ではなく
その下のお鍋の中の空気がトンと響いた瞬間。あれが打点です。
弦楽器であれば弓が糸をこすった瞬間ではなく胴(共鳴箱)がズンと響いた瞬間が打点です。
これを前提に『合わせて』います。この感覚で合奏が成り立っています。
合唱を振ってみればわかると思うのですが・・・
たとえば頭声区であれば、頭が響いたところが音の始まりです。声帯は通過点です。
喉が打点ではありません。響いたところが打点です。音の始まりは響きはじめた点です。
管楽器で言えばリードや唇を打点と一致させているわけではなく、気流がツボに当たって
楽器がトンと響いた地点、あの時点を合わせています。これが基本です。
アマチュアバンド、中高生バンドなどに混じって吹くとみんなで前のめりになっているので
大変吹きにくい場合があります。
こういう人達は気流がリードや唇に働きかけて振動音を発生させ、その振動音が拡大して
音になるのだという意識を持っています。
粘膜地声サウンドでも気にしません。ミソもクソも一緒にして「音」だと思っています。
ティンパニはバンバンと鳴り、ラッパはバーバーと鳴っています。
棒を振ってみると打点に達する前の空中で音が出てしまう人が沢山います。
気流で歌うのではなく唇で歌おうとします。
音の始まりは振動音であり、リードや唇であるという意識です。我々は気流が狭い隙間を通過する際の開閉運動(ベルヌーイ現象)による疎密波(音)の発生を
音の始まりとして意識しています。つまり響きのツボに当たった時点です。
振動音は音に輝き成分を加える要素ですが、音の発生に不可欠の要素ではないと意識しています。
疑似閉鎖管の感覚でいえば、金管楽器の場合ベルの開きの前のところで
トンと楽器が響きます。これを「当たり」と言ったりします。気流が仕事をしています。
「当たり」とは響きはじめのことであり、振動音の発生ではありません。
先日、あるアマチュアバンドでこの練習をしたら「口が楽になりました」という人が
何人も現れてきました。ちりめんヴィヴラートが直った人もいました。
そして「音の始まりは響きであって振動音ではない」という意識で吹くためには
「母音は後ろ」つまり歌唱発声の喉バランスにならざるを得ません。
結果的に支えられた息で吹く事になります。粘膜奏法などとんでもありません。
「響いてから鳴る」のであって「鳴らせば響く」わけではありません。
「そば鳴り」という言葉もあるくらいです。響きが振動、鳴りを誘発します。
しかしカガクテキな人々は唇やリードの振動音が音源であると信じていますので
一緒に音楽するのは大変難しくなります。
薄すぎる、軽すぎるラッパは振動優先なのでかえって吹きにくいと感じるわけです。
カガクテキなセンセーは息の流れ(喉、舌、呼吸筋のありかた)が逆に
アンブシュアを教えてくれる事を無視、ないしは無知ですから生徒は苦労します。
シキシャがカガクテキな人だったら合奏は悲喜劇の連続です。皆さんはどのようにお考えですか?
「響き・振動」
ちょっと学校で学生に話す時のように、率直に、経験的に、感覚的に書いてみます。
我々音を出す人間は耳と身体で音を使って音楽をしていますが、「音」というものを
どの様にとらえるかという事が、喜びや苦しみの原因になっているのだと思います。
その意味で「声楽」という言葉は実に含蓄のある言葉なのだなと教えてくれます。このサイトの常連の方々はすでにお分かりのように、私の場合は「音」を響き成分と
振動成分の組み合わせ、あるいは融合として聞くタイプの人間です。
《いい音と悪い音》というような対立軸で「音」というものを聴いていません。
一つの音の中に出自の違う成分があってその組み合わせが「音」として在るのだ
というふうに聞こえています。
人はそれを高低、強弱その他様々に音楽的に組み合わせて使っているのだと思います。
そして、その指令を出しているのは脳ミソだと思います。
響き成分に頼ったり振動成分を活かしたり・・・
だからよく言われるように「モーツァルトのフォルテとベートーヴェンのフォルテは
違うんだよ」というような言い方が納得できるわけです。
音楽している時の音は《高い、低い、大きい、小さい、速い、遅い》のような計測可能な要素
だけで成り立っていませんよね。人間の耳はもっと多様な情報を受け止めています。
大編成のオケと合唱のなかで過不足なく聞こえるように吹くためにどの様にするか?とか・・・
声部の補強なのか独自のフレーズなのか・・・
一言でラッパを吹くといっても様々な条件の中でラッパを吹いています。だからこそ基本的なことが重要ですよね。
ガクシャ先生やシキシャ先生は感覚的にいい事を言ってくれます。しかし・・・
具体的に吹き方を教える存在ではありません。実際にやるのはガクタイ屋です。自分です。
そして、同じフレーズでも《マエストロ》が違えば要求が違います。
でも、いつもにっこり笑ってラッパを吹きたいと《願っている》のがガクタイ屋ですよね。
だから《基本》ではないでしょうか?私の場合、以前にも書きましたが・・・
たとえばヒトの声はいわゆる喉頭原音が単純に増幅されたものであると
規定する聴き方が出来ません。
と言うよりそのようなカガクテキ聴き方ではラッパの音が楽に出ません。従って音楽が出来ません。
単純に、感覚的に言えば「響き」は空気の流れが空気を振動させている現象であり、
「音の芯・輝き・輪郭」と言われるものは音源の振動に由来すると聴いた方がわかりやすいのです。
だから「ベルヌーイ効果による自励的振動」だけでなく、芯、輝き、輪郭等音源の振動の《質》が
問題になってくると思います。(開閉と振動のありかた)
粘膜奏法の問題はもちろんの事、美しい振動成分をどの音域でも実現できるかどうか・・・
その様に理解していれば自分の事だけではなく、生徒に教える時にも便利なのです。
生徒の状況、進度その他、その人の独自の個性に合わせる事も可能になってくると思います。面白い事にこういう聴き方をすると歌の人だけでなく、弦の人とも話が通ずる事を発見します。
沢山のヒント、助言もいただきました。
ところが中には宗教的とも思えるユニークな人もいますので注意が必要だと思います。
いわゆる俗なアクート、アペルト論議にしろ、ドイツ唱法、ベルカント唱法論議にしろ・・・
実際の演奏場面から離れて、俗論が宗教的な「善悪論」になってしまっているのはお笑いですよね。
弦楽器や打楽器の人も中にも無意味な(お笑い的な)争いをしてしまっている人達もいます。
コトバが踊っている感じですよね。
こういう論議はガクシャさんには有益かもしれませんが、ガクタイ屋には無益なものだと思います。
たとえば、先ず・・・
高い音は開放された音として、楽に出る音として、唇のリラックス感と共に習得されるべきです。
(スタンプ教本でもこのことが一番大事な部分である事はお分かりと思います)
そしてそれに輝き成分が加わったものをアクートとするのであれば異論はありません。
しかし、アクート論議をまるでお題目のように正邪善悪論にしてしまっている人もいます。
「最初にアクートというコトバありき」みたいな事を言って悦に入っている人達もいます。
よく聞いてみると「私の先生がそう言ったから・・・」みたいな根拠だったりします。
「アクートは善、アペルトは悪」みたいな原理主義者のような話にしてしまいます。
コトバが犯罪者を生産するセカイですよね。
ついにはゲルマン人とラテン人では声を出している時の横隔膜の動きが違うのだ等と言い出す始末。
それでは多民族の国アメリカ人の横隔膜はどうなっているんでしょうね・・・?????
実際に流れている音楽とコトバがどんどん離れてしまいます。
息の「支え」とは吸気筋である横隔膜の呼気時における吸気的傾向であって人類共通です。
いきんだ身体と釣り合っている喉から出てくる音はどんな人種でも同じです。
私は基本をふまえて音楽したいと思っています。運命論ではなく《さらう》事は大事だと思います。
《さらう事》を軽視して、才能とか歯並びとか楽器とかマウスピースとかリードとか・・・
そういう問題を主要課題とするコンセプトにはついていけません。
《さらう事》は《学び続ける事》だと思っています。俗論信者の声を実際に聞くと、単に鼻にかかった細い声や怒鳴り声だったりする事があります。
つまり「音が楽に出ていない」のです。ここがまず大事なことなのに・・・
そういう人にかぎって《師匠自慢》をしたりします。自分の自慢をしてほしいと思いますが・・・
ラッパの練習の必須科目、当たった音、リップスラーやスタッカート、まっすぐな音、長い音、
クレッシェンド、ディミヌエンド等々の練習はどういう譜面が効果的か?
と言うよりもどういうコンセプトが有効か?というふうに考えた方が便利だと思います。
とりあえずどんな譜面でも練習できます。それぞれ孤立した練習ではないのですから・・・
どんな譜面をサラっても変なコンセプトであれば結果は期待できないでしょう。
俗論に惑わされないで他の楽器の音も人の声も虚心に沢山聞いてみれば耳で理解できると思います。
基本は孤立していないと思います。
だからこそ、歌の人、弦の人、太鼓の人やピアノの人とも計測出来ない共通理解が生じます。
そして生き生きと、楽しいアンサンブルが出来ると思います。皆さんはどうお考えですか?
「歌うように吹くと・・・」
先日、レッスン室に顔見知りのサックスの学生がやって来て「調子が悪いので見てほしい」
ということでした。
「サックスの先生のおっしゃってる事がわかるのに出来ない!」「くやしい!!」
先ず持ってきた譜面の冒頭、上のH(記譜)から始まる部分が上手くいかないと言うのです。
自分のイメージどおりに吹けないのでくやしがっていました。
この学生としては「柔らかくて、しかも艶、響きを失わないサウンドから入っていきたい」
と考えています。持っているイメージは極めて健康的です。
「アンブシュアをいじってもリードを変えても上手くいかない」ので
私に相談にきたわけです。よくあるケースです。一見したところ、喉が頭声状態になっていないのでアンブシュアが楽になっていません。
ちょっと噛みすぎ状態になっていますが、本人としてはそんなに締めているとは思っていません。
知識として「噛みすぎてはいけない」と知っています。しかし、だからこそ相談に来たわけです。
サックスの場合、この音は何も考えなければカンタンにとりあえずは音は出ます。
この学生の場合は私の本も読んでいますし、以前はこんな音ではありませんでした。そこで、こんな質問の仕方をしてみました。
「息がリードを通過して音になるけれど、その息はリードの前に喉を通過しているよね?」
「時間的にはどの程度速いか科学的には分からないけれど・・・
ともかく一瞬速く通過しているはずだから
その音をイメージした時に喉も頭声状態になっていれば都合がいいでしょう?」
「息を吸う時には次の音をイメージしながら吸っているわけだから、歌うつもりで吸ってみたら
上手くいくと思うよ」「その音が出る一瞬前に喉が頭声状態になっていればいいと思うよ」
「いきなり頭声という場合もあるから回しておいて準備するよね」等々・・・
彼女は早速吹き始め、冒頭のひとフレーズを吹いたとたんに満面に笑みがこぼれました。
「あっ!楽になりました!忘れていました!・・・」
そうなのです。新曲とかややこしい譜面をさらうときに《基本的な事》を忘れがちになるのです。
音をつかんで並べようとしてしまいがちです。歌う事を忘れてしまいます。
一刻も早く譜面に書かれた記号をとりあえず音にしようとします。気流の関所である喉がアンブシュアに与える影響は、高い音域ではすぐに分かってくれる人は
多いようです。しかし・・・
低音域におけるその影響を理解する人は思ったより少ないようです。(地声と胸声のちがい)
多くの初心者が「低音域はカンタン」と思っています。
つまり、管楽器の場合・・・喉が地声状態でもとりあえず音が出ます。
その場合、アンブシュアは地声アンブシュアに導かれます。
そういう人達はどんな音でも音には変わりないと思っているのでしょうか?
さっきの学生は音とフレーズに対して健康なイメージを持っていました。
低音域で開いてしまうような事はしません。
クラシック音楽で使われている音とフレーズに関する健康なイメージを持っています。
こういう学生の場合は、単なる地声と歌唱発声における胸声のちがいを身体で理解してさらう時に
具体論として「あ、これが低音域で開かないアンブシュアなのか!」というふうに体得します。
喉の状態がアンブシュアを教えてくれます。
あるフルートの学生が相談に来た時には低音域の音とアンブシュア、喉の関係でした。
この学生もアンブシュアだけで低音域に対応しようとしているために上手くいってない状態でした。
アンブシュアよりも一瞬早く歌う、つまり胸声状態になっている必要があります。
分散和音の練習をしながら「本」で書いた基本形のポイントに落とす事をしばらくやってみました。
芯も響きもある音が出るようになりました。開いたアンブシュアではありません。
この学生も低音域の音に対するイメージは健康だったので短時間で理解してくれました。高音域のアンブシュアは《回す》というイメージによって
喉のバランスが影響している事がわかるように、低音域も地声ではなく胸声のバランスが
低音域のアンブシュアを教えてくれます。
ただし、高音域におけるヒントのわかりやすさ程ではないかもしれません。
母音の位置と《耳》の助けが重要ですよね。《低音域はカンタン》は誤解です。皆さんはどうお考えですか?
「様々な人々」・・・の巻
このところ講習会その他のかたちで、中学生から大人まで様々な人に会う機会がありました。
当然の事ながら、改めて人それぞれが奏法に関するそれぞれのストーリーを持っている事を
痛感させられました。
私は「息の流れが仕事をする」という事をストーリーの基本に据えて、奏法というものを理解する
という立場を取っています。
「息の流れが仕事をする」という事から出発して、息の流れにかかわる身体の様々な部分が
どのように働くのかな?ということになり、「歌うように吹く」という言葉に行き着いたわけです。
同じ「息の流れ」という言葉を出発点にしても「息のスピードはどれぐらい?」とか
「息の量はどれぐらい?」というふうに発展させていく人もいます。
中には自分の考えというより誰かの語った「片言隻句」に こだわって
全体が見えなくなってしまっている人も結構いるのが分かります。
数量で語ることがカガク的な思考法だと信じているのだと思いますが、
どうしてもそのような土俵の中で考えないと気が済まない人もいるようです。
こちらの話をそういう話の中に位置づけようとします。
「唇の振動音」を唯一無二の音源と決めつけ、「ベルヌーイ効果による自励的振動(開閉)」の
要素、意味を考えようとしない、あるいは誤解する人もいます。
息の流れからすれば唇は受け身なのですが、そこのところをあまり考えようとはしません。
唇のコントロールと言っても受け身の中でのコントロールなのです。たとえば中高生の場合先輩や顧問の先生の説明するストーリーのなかで考えている場合が
ほとんどなので、いきなりこちらのストーリー全体を語っても混乱してしまう場合もあります。
そこで、「歌うように吹く」という立場から「歌う時の唇は硬くなってはいない」
「歌う時の顎関節も楽な状態ですよ」「歌う時の舌も喉も力が入ってはいない」
「歌う時の横隔膜には吸気的傾向(支え)が見られる」という風に話を進めます。
たとえば「歌う舌先は下を向いている」という話をしてみます。よく解説書の図を見ると
舌は水平な状態に書かれている事が多く、生徒のイメージの中にもそういう姿が
インプットされている場合があります。舌先は普通下歯の裏にあって下を向いています。
何もしていない時にはそれが普通の位置です。これが楽な位置ですからこれを参考にすれば、
スラーでもタンギングでも舌先は歯からそんなに奥まで遠ざかる事はありません。
歯のそばで動いています。こういう話をしながら実験してみると分かってくれる生徒もいます。
「舌はこうでなくてはならない」という話より気楽に聞いてくれます。
「母音の位置」にしても「舌の真ん中にあるのではなく、もっと奥の深くて見えない
ところにあるんだよ」というふうに言ってみるといきなり音が響き始める生徒もいます。
これがマジオ教本のスロートポジションなのです。
これらの話は実際に息を流しながら、そして楽器を吹きながら実験します。
「歌う舌先」だと舌は楽なので喉は「歌う喉」つまり「楽な喉」「開いた喉」が分りやすいのです。低音域での開かないアンブシュアというテーマの時も「息の流れ」「歌うように吹く」という
ストーリーからすれば息の流れのイメージについて話さないわけにはいきません。
低い音を吹く時に「吸う時に一度膨らんだ上腹部に重さを感じながら」
「上腹部に息を当てるつもりで」というような話をします。
「横隔膜に息を当てなさい」という言い方をする人もいます。
このイメージから「低音域で開かないけれど硬くないアンブシュア」をつかむ生徒もいます。
そして同じイメージから「支え」の感覚を身体で理解してくれる生徒もいます。
「歌う舌」「歌う喉」と「怒鳴る舌」「怒鳴る喉」は違っているのですが、
「地声モード」を当たり前で自然な状態と思っているとなかなか理解してくれません。
どういう言葉が有効かは生徒を観察しながら選んでいく事が必要なので根気のいる作業です。
しかし教える事は学ぶ事なので発見する事も多いわけです。皆さんはどうお考えですか?
「いきなりファルセット」・・・の巻
あなたが長い間開いたアンブシュア(粘膜奏法)のままで苦労してこられた
状況と心情は大変よくわかります。お察し致します。
「粘膜依存型地声アンブシュア」とか「粘膜奏法」などという言葉は、
私が言い出すまでは公には誰も言わなかった事です。《必殺》までつけて・・・(笑)
大きな声で言えない「ある状況」もあった事は確かで、私がそれを初めて言った時には
「あんた勇気あるね」とか「大丈夫ですか?」とか言う人も周囲にいました。
しかし、呼び方はともかく《楽隊屋仲間で小さな声で》という状況はありました。
中学、高校の吹奏楽の指導者の世界ではこの事は確かに一般的ではなかったと思います。
そして「粘膜奏法さえ脱却すればすべて上手くいくのか?」という事もあります。『いきなりハイB♭』はあなたが言われているように、その下のFでもいいわけです。
つまり発声に置き換えれば『いきなりファルセット』と同じ事です。
振動成分に頼るのではなく《息の流れが音を発生させる》という言葉を体験するものです。
そういう意味であなたの言われている事は粘膜奏法脱却のためのヒントになると思います。
ただし、私の場合は『いきなり』ではなく、やはり少しウォームアップして
柔らかくしたほうがダブルハイ音域も低音域も抵抗がありませんでした。
「気流が仕事をする」という言葉は普遍的で声楽や他の管楽器にも当てはめる事が出来ます。私は楽隊屋ですが、いっぽうで学生や生徒を教える立場でもあります。
楽隊屋としては「結果が出れば OK 」ですから
たとえば粘膜奏法脱却の方法は何であってもいいわけです。
しかし、管楽器教師としては実際にさまざまな生徒に対して
説明しフォローしていかなければいけません。個人に合わせる事も普遍性も要求されます。
『教師は何故基本を教えなければならないか?』
それは生徒がやがて独り歩きを始めて、時に迷う事があったとしても、
『基本に立ち返る事によって立ち直る』事が出来なければいけないからです。
その立場から言えば『いきなりファルセット』ではなく、リップスラー等を利用しながら
「ファルセットサウンドは排除すべきものではなく、ヒントとして利用すべきものである」
という事を体と耳で理解させます。
ラッパの事だけでなく、他の楽器の音との関連性をも理解できる事は大事だと思っています。
そのほうがかえって幅広くて強い子が育つと思います。「気流が仕事をする」という状態は五線の中のFでも教えられます。それが私の立場です。
何故なら、『いきなりハイB♭』は『気流が仕事をする』事がよくわかっていない生徒は
『いきなり高い音』と思ってしまうからです。
ハイB♭の下のFの音をノーアタックで(気流で当てる)試す事はありますが、
生徒の先入観、理解力によって結果は分かれます。
『いきなり高い音』としか思わない生徒もなかにはいます。以上のごとく、私があなたの言われる事を否定するものではない事はお分かりだと思います。
そして、あなたはたとえ粘膜奏法だったとしても長い間の経験があるわけです。
様々な音を知らない、経験の浅い人達と同列には出来ません。
考えるべきは吹奏楽指導者、管楽器指導者だと思います。皆さんはどうお考えですか?
「聴く、そして歌う」・・・の巻
呼吸法というものを考えるときにすぐ目に付くのがヨガや気功ですが、これらはもちろん
管楽器を吹くことを想定しているわけではありません。しかし・・・
中にはこれらの世界で言われていることの中からヒントをつかんで
管楽器演奏に当てはめようとする人達もいます。
そういうやり方が上手くいけばそれはそれでかまいません。
しかし、ヒンズー語や中国語で語られる事柄はなにやら宗教的な色彩を帯びて
私には理解困難でした。私はそれよりももっと直接的に「音とどのように結びついているのか?」
ということに興味関心があるわけですから、これらの世界からヒントをつかむことは
あきらめました。結果的にこれらの世界で言われていることと重なる部分があれば、
それはそれで何らかの意味があるでしょうから、後で考えてみればよいという立場です。《管楽器から音が出ている時の息の流れ》に関することが我々にとっての
呼吸法だと思っているわけです。お産のための呼吸法で管楽器を語る事は出来ません。
ヨガにはヨガの目的があり、気功には気功の目的があるわけです。
重なる部分があっても不思議ではありませんが・・・
ヨガの呼吸法だと言いながら《強制深呼吸》を薦めている人もTVに出ていました。
気功の専門家と称する人の中にも同じような人もいました。
そうではなく「ベルカントモード」のバランスと同じ《支えられた息》を薦める
人もいました。これらの世界の中にも流派があるかもしれません。
いっぽう、声楽家や管楽器指導者の中にも勘違いした人がいるのも事実です。
《強制深呼吸》を平気で生徒に強制している先生も中にはいます。
音楽家でありながら何故この様な事が起きてしまうのでしょうか?
私はそれには「耳」の問題が大きく関わっていると思っています。多くの先達が教えているように「先ず聴け、そして歌え」だと思います。
「聴く」というのはただ単にピッチの違いやリズム、
フレージングやアーティキュレーションがわかるという事だけではありません。
ツボ、音の響き、高次倍音のあり方等々《音の性質》を聞き分け、意識化するという
初歩的な習慣が意外に少ないように思います。
気流とツボ。輝きや音の芯と振動成分。ピッチと響き等々・・・
ただ単に《いい音、悪い音》というような簡単な区別しかしない聴き方をしていれば
様々な悲喜劇が起こってくると思います。しかし現実は・・・
吹奏楽をやっている生徒の悲鳴は絶える事がありません。
指導者は《聴く》という事をどのように考えているのでしょうか?
「金賞」を取るために根性で吹かせます。指導法はマニュアル化されています。
もっとも大切な《聴く》という習慣はどうなっているのでしょう。
「アンサンブルコンクールをやれば自然に身に付く」と言う呑気な指導者は
ピッチとリズムの問題しか頭にないのかな?と思ってしまいます。
地声のまま合唱させて、いろいろな問題が生じてきてから
困って相談して歩く合唱の先生みたいな事をしているわけです。
たとえば、《楽に吹きたい》《高い音を出したい》のに音の聴き方の習慣がない。
地声サウンドのまま目指すのはただ「金賞」「全国大会出場」という具合です。
運動中枢の問題以前の前頭葉の問題だと思うのですが・・・呼吸法というのは息の流れに関する情報ですが、我々にとっては「音」と共にあるわけです。
瞑想や身体の鍛錬のためではありません。ましてや楽にお産をするためでもありません。
呼吸法が《音から離れて独り歩き》しては困ります。
やがて《呼吸法のための呼吸法》になって生徒を苦しめてしまいます。
音から離れた「呼吸法」は、腰痛、痔、縦隔気腫など、音に関係のないどころか
健康に関わる多くの悲鳴の原因ともなり得ます。
去年の「会議室」にもすごい話が寄せられていました。皆さんはどの様にお考えですか?
「息の流れが仕事をするの?」・・・の巻
この前の「こぼれ話」の続きになってしまいますが・・・
私は「リードが仕事をする」という言葉を「息の流れが仕事をする」という言葉の
反対語として使ってきました。木管楽器のリード、金管楽器奏者の唇、歌手の声帯は
同じ役目を持っているので同じ説明が当てはまります。しかし・・・
「息の流れが仕事をする」という言葉を聞くとすぐに「息のスピード」とか「肺活量」
とか「ロングトーン」を連想する人もいます。これでは「困った話」になってしまいます。
「息が仕事をする」という言葉の反対語をきちんと押さえていれば、こういう短絡的な連想には
ならないと思うのですが・・・この前の「こぼれ話」にも書いたように、金管楽器ではバズィング音なしでも音は出ます。
この時にマウスピースの中の唇は余分な硬さがありません。
「閉じてはいるが柔らかさを持ったリード」です。
息の流れがツボに当たっています。音は響き成分が主体ですから
いわゆる「柔らかい音」に聞こえます。
ノーアタックで音を出してみると良くわかると思います。
これは声で言えば本質的にファルセットの特徴です。高音域は先ず最初にこの現象に着目します。
頭声とファルセットは兄弟ですからここに高音域のヒントがあるわけです。
しかし、初心者は(時には指導者も)「音源はリードの振動である」としか思っていないので
「困った話」が続出することになります。「音源はリードの振動である」すなわち「リードが仕事をする」という固定観念に縛られている人は
かつて私が書いたように「必殺粘膜奏法」(笑)に陥りやすいわけです。
多くの初心者がとりあえず振動しやすい唇の柔らかい部分に頼ります。
とりあえず音が出やすいからです。そしてそのまま振動数を上げて高い音を吹こうとします。
やがて行き詰まってしまいます。まさに必殺です。
唇は閉じてはいても柔らかさを失わないで使えるかどうかが勝負なのですが・・・
《ここで大事なのが「ベルヌーイ効果による自励的振動」という現象です》
《以前の「こぼれ話」と共に参照。 http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~ent/fsl/ 》
「粘膜依存型」のアンブシュアから発せられた音は、若者ふうに言えば「ケバい」音なのですが、
初心者は「華やかな音」だと信じているのでやっかいです。
「耳」と「身体」はひとつになっていなければ困るわけです。
ただし、アンブシュアそのものは粘膜依存型でも音が気に入らないので「少し握って」暗めの音を
柔らかい音だと勘違いしている人もいます。これも困ります。
いずれの場合も「音源はリードの振動である」すなわち「リードが仕事をする」という
固定観念に縛られている人達です。リードの振動成分が重要な役割を果たしている事がわかるのは「胸声区」すなわち「低音域」です。
高音域ではありません。そこでその振動のあり方が大事な話になってきます。
指導者が「低音域は開いてはダメですよ」というアドヴァイスをするのが分かります。
ただし、ここでも「開いてもいないし硬くなってもいない」アンブシュアは
喉、呼吸筋とセットにして具体的に「耳」と共に覚えた方が分かりやすいのです。
多くの吹奏楽指導者はあまり神経を使っていないようです・・・
母音の位置が前にあれば(話し声・地声モードの喉)開いたアンブシュアと釣り合いがとれます。
「楽して音を出す事」と「楽に豊に響いてくれる事」は意味が違っています。
高音域でも低音域でも息の流れは重要ですが、「息の流れに乗って音が響き、流れる」のであって、
「振動音を作り出して後押しをする」ために息が流れているわけではありません。
私が「ベルカントモード」「歌唱発声モード」という言葉を使う理由はここにもあります。「ベルカント」という言葉の意味については「本」や以前の「こぼれ話」に書いたとおりです。
私は「ベルカントモード」の反対語として「地声・話し声モード」という言葉を使っています。
俗説にとらわれた人は「ベルカント」に対して「ドイツ唱法」というようなことを言いだします。
これが以前紹介したチェレッティ氏の言う「間違い」のもとです。
こういう人達は往々にして「音源はリードの振動である」と思っています。さらに・・・
ヘンデル、モーツァルトやロッシーニのようなオペラからヴェルディのオペラに
《進化》したと思っています。《進化》したのではなく時代に合わせて《変化》したのです。
バッハの「ロ短調ミサ」や「クリスマスオラトリオ」等におけるトランペット演奏技術は
マーラーやレスピーギでもリヒャルトでもストラビンスキーでも必要なことで通底しています。
音楽の様式が時代と共に《変化》したのであって《進化》したのではありません。
楽器から楽に音が出てくれる時に大事なことは今も昔も変わらないのです。
「音源はリードの振動である」すなわち「リードが仕事をする」という固定観念に縛られていると
そのあたりがだんだんと、あるいはいっぺんに見えなくなります。皆さんはどの様にお考えですか?
「音ってなに?」・・・の巻
時々私のところへやってくる高校生の話です。
「吹奏楽の世界では超有名な先生が来られました。《君たちの音程が合っていないのは
バズィングで音程が合わせられないからだ。今度来るときまでにその練習をしておきなさい》
と言われたんですが、そんなことしたら調子が悪くなって困ってしまいます」
その生徒は半ベソ状態でした。気持ちは大変よくわかります。
真面目に言われたとおりをやり続ければ、とりあえず振動しやすい粘膜振動に頼ってしまいます。
そしてしばらくして固くなってきます。その後はひたすら「根性」で吹くしかありません。
この話を聞いて私は絶句してしまいましたが、同僚は腹を抱えて笑い出しました。
生徒にとっては笑い話ではすみません。吹奏楽では《その種の根性》を育てることを目的にしているようです。
指導者は「音とは何か?」「響きとは?」「振動とは?」などということは考えないようです。
それがベースになって「フレーズとは?」その他様々な「音楽表現」や「合奏」が始まるわけです。
「音程とリズムを合わせて強弱をつける。そして楽器間のバランスをとれば殆ど出来上がり」
とでも思っているかのような指導者もいます。
何よりも、「生徒の成長より今年金賞を取ること」が優先されているようです。
基本の積み重ねが「金賞」にも「成長」にも結びついているのですが・・・「管楽器の音や人の声は振動音が増幅されたものである」というふうに単純に考えている指導者は
生徒を苦しめることが多いようです。
以前の「こぼれ話」でベルヌーイ現象にふれて書いたように振動音なしでも音は出ます。
バズィング音なしでも音は出ます。ノーアタックで実験すればすくわかります。
気流が狭いすき間を通り抜けるときの気流の速度と気圧の変化の関係ですよね。
気流が狭いすき間を通り抜けるときに疎密波(音)が発生しているわけです。
これは私たちの耳には響き成分として感じ取れる部分です。
この現象に着目して各種のトレーニングをしたり音楽表現のあり方を感じ取ることが基本です。
声楽のトレーニングでも同じことなのですが・・・
しかし、やっかいなことに、気流が音を発生させていると同時にリードの振動音も発生させるので
誤解をしてしまうことが多いようです。
したがって、音を出す側の人間としては振動音のあり方、すなわち「美しい振動音を伴った疎密波」
を求めることになるわけです。「振動成分と響きの幸せな同居」という事になります。
高音域では下手に振動音を求めないことが出発点になります。金管楽器ではリップスラーの練習が
不可欠ですが、この練習の意味とノウハウが大事です。
人の声でいえばファルセットの練習をしているわけです。
いっぽう、低音域では振動成分は不可避で不可欠です。だから美しい振動成分でなければ困ります。
ここで誤解した人はとりあえず振動しやすい粘膜振動に頼ります。
「音の基本」を無視して、あるいは誤解して、俗説に依拠して「根性」を要求する指導者がいる
という事がよくわかります。粘膜振動に頼る吹き方は母音の位置が前に出ます。地声(話し声)モードの喉のバランスです。
このままで上の音域に上がろうとすれば唇を締め上げることになります。
しかし、指導者はこれを「根性」で耐えさせるわけです。
低音域イコール地声ではありませんが、そのように誤解している人はけっこういます。
「息、耳、心」は技術を覚えるために必要であって、物理的な痛みに耐える事ではないと思いますが、思考停止した人達は私の言葉なんぞ気にも留めません。
基本を無視して、あるいは誤解したまま「金賞」を欲しがります。
カガクテキな俗説に依拠して結果的に「根性」を求めるインテリもいます。
インテリはアタマがよいので私のようなアタマの悪いガクタイヤのいうことは信用しません。皆さんはどの様にお考えですか?
「ベル・カントってなに?」・・・の巻
私は管楽器を演奏するのに都合の良い身体のバランスを「ベルカントモード」、その反対語として
「地声モード」という言葉を使いました。
「言葉をしゃべる身体のバランス」そのまま吹くのではなく、
「歌うように吹く」という事が管楽器演奏に恩恵をもたらしてくれるからです。
言葉をしゃべるのは地声です。そのまま歌えば地声の歌ですが、「歌うように吹く」
という言葉は地声で歌うことを指してはいません。いっぽうで「ベル・カント」という言葉も誤解されやすい側面を持っているようです。
第一に「ベル・カント」(美しい歌唱)という言葉は歴史的背景を持った言葉なのです。
これを無視したけっこう笑える話もあります。
イタリア人は皆ベルカントであるとか、ドイツ人はベルカントではないとか・・・
たしかに17世紀のイタリア人歌手達の歌声を「ベル・カント」と呼んだのですが、
地域もさる事ながら、当時のオペラ様式との関連で生まれた
歌声、歌唱技術に関わる言葉なのです。
当時のバロック・オペラは写実的ではなく空想的、奇想天外なお話が題材となり、
ご存じのとおり、カストラート達(去勢歌手)が活躍しました。
声はまるで楽器のように扱われ、器楽のように細かい音符、装飾音の多用、
跳躍、等々名人芸を要求されたわけです。
声もまた、成功したカストラート達のような「この世のものとは思えぬ」ものが喜ばれたわけです。
モンテヴェルディ、スカルラッティ、ヘンデル、モーツァルト、ロッシーニと受け継がれ
ベッリーニ、ドニゼッティのオペラにも一部その名残が見えます。
モーツァルトがイタリア旅行中に聴いたといわれるソプラノの名手が歌った譜面などは
16分音符が延々と続く上に、最高音はダブルハイCにまで達しています。
まさに驚愕の一言です。
しかし、ご存じのとおり、やがて社会の変化、音楽観の変化等、
種々の要因で歌唱様式は変化していくわけです。
写実性、生々しさ、力強さ、等々おなじみ後期ロマン派のオペラです。「力強さ」を誤解した歌手は「力ずくで」声を出します。
そしてそれが「ベルカント」なのだと思いこんだりします。
声を酷使することと声の技術を使うことの区別が分からなくなっている歌手もいます。
俗説による勘違いの世界に入っていくととんでもないことになってしまうようです。
「ベルカントモード」は当然のことながら「本来のベルカントモード」という意味であり、
俗説に依拠したものではありません。ロドルフォ・チェレッティ著「ベルカント唱法」という本の「日本版への序文」(1994年)
にそのあたりの事が書かれています。一部紹介します。
《私は声楽の勉強を仕上げるためにイタリアへ来られた若い日本の声楽家を何人も知っています。
みんな高度な音楽の知識を持ち、一層技を磨くためにイタリアへ来たと言います。
なぜならイタリアは「ベルカント」の国だからです。しかし、「ベルカントって何ですか?」
と尋ねますと、彼らはヴェルディやプッチーニのベルカントですと答えます。
これはイタリア人をふくめてヨーロッパの人々もしばしば犯す間違いです。
たとえば、ヴェルディを見事に歌うことが出来ても、
ヴェルディはベルカントの時代の作曲家ではありません。
プッチーニ、そしてベッリーニやドニゼッティ(いくつかのオペラはベルカントに含まれます)も
ベルカント時代には属しません》・・・以下、省略戦後、ヴェリズモ以前の発声の復活とか本来のベルカントの技術の見直しとか
言われたのもこのような背景があるわけです。戦後は遠くなったんですけど・・・(笑)
モーツァルトはもちろんヴェルディやプッチーニも「本来のベルカント」の技術を無視して歌えば
悲惨なことになりますよという訳です。
人間の身体の構造は昔も今も変わらないわけですから・・・先日、サントリーホールでグルベローヴァさんがドニゼッティの歌で名人芸を聴かせてくれました。
今年還暦だそうです。「力ずくで歌う人達」はどの様に聴いたんでしょうね。
管楽器で言えば「力ずくで鳴らす」のではなく「楽器が勝手に響く」であり、
「リードが仕事をする」のではなく「気流が仕事をしている」わけです。皆さんはどの様にお考えですか?
「歌うの? 吹くの?」・・・の巻
先日、ある講習会を終えて先生から質問が出ました。
「何故今回は呼吸筋の話が少なかったのですか?」
もう何回目かの講習会ですから《呼吸筋、喉、アンブシュアは関連している》というテーマは
理解してもらっていると思っていたので、こちらの方が「えっ?」となりました。
三つが関連しているからにはどこからヒントを与えても同じことになるわけです。
生徒達には実際に声を出してもらいました。ハミング、ファルセット、実声等、人によってヒントを
つかむ声の種類は違いますが、地声ではなく歌唱発声のバランスで声が出た状態をヒントにすると
「ラッパで楽に音が出る」事が分かります。
「歌う息」と「吹く息」は違っているからです。身体のバランスが違うわけです。今までの管楽器教育では《二つの間に違いがある》という前提で教えてこなかったわけです。
ただ単に漠然と「呼吸法」として扱ってきたわけです。カガクテキに・・・
いわく「フクシキ」「キョウシキ」等々・・・
ですから、私がそれを言いだすと、カガクテキな人々からは「ウサン臭い」等と散々でした。
さしずめ、そういう頭の良い人は、《管楽器は「吹奏楽器」である》したがって・・・
「吹いて鳴らすのは自明の理であって議論の余地がない」「息は息であって、空気の流れに
違いがあるわけはない」「アタマの悪いガクタイ屋が非科学的なことを言ってはいけない!」
と考えるのでしょうね。頭のよい人は時としておおざっぱな神経をしている場合があります。
私はガクタイ屋なので「歌う息」と「吹く息」とは違うと感じ取ってしまうわけです。
「歌う息」とは「歌う身体のバランスから生まれる息の流れ」という事です。
これまで「本」やこのHPでまさにその事について書いてきたわけです。例えばある生徒は、ハミングがただの鼻歌でした。ところが指導していくうちに
歌唱発声のバランスでハミングできるようになってきました。
その段階でラッパを吹かせると、それまでとまるで違って鳴り響いたわけです。
「どう?」「楽です!」これ以上彼に説明は要りません。
また、ある生徒は歌声どころか声そのものが非常に不安定でした。
しかし、耳の良い生徒だったんだと思いますが、指導していくときちんとした
歌唱発声の声になったのです。そこでラッパを吹いてもらいました。
お互いに目を合わせてニヤッと笑っただけでした。高い音まで楽々と上がることが出来たからです。ただの裏声ではなく「支えのあるファルセット」、
単なる鼻歌ではなく「歌唱発声状態でのハミング」を経験すればすぐに分かることですが、
腹斜筋その他の呼吸筋、喉頭の保持機構、等の状態が一見気楽な地声とは違います。
生徒ふうに言えば《ハンパじゃない》状態です。しかし・・・
その状態を「歌うこと」によって《自然に》引っ張り出したわけです。
呼吸筋の説明から入ってその状態を導き出したわけではありません。
「関連性」を持っている以上、どちらから攻めても結果は出るわけです。
教える側がそれを分かっていれば生徒の状態に応じて教えるだけの話です。
ただし、いい結果が出たときが「出発点」であって「到達点」ではありません。
ところが、生徒は往々にして一度だけの体験を「到達点」だと思ってしまう場合があります。
マニュアル思考体質の弱点がそこにあります。
先生としての役割が大事なところなんだろうと思われます。「吹く息」はほとんどの場合、簡単に「吹き込む息」になります。
「吹き込んで鳴らそう」とするからです。
「歌う息」は「吹き込む息」にはなりにくいのです。「歌って鳴らす」ほうが楽だからです。
「息のスピード」などという言葉の意味も自然にわかってきます。
「息に違いなどあるものか」と思っているカガクテキな、頭のよい人は「歌う」ということを
《観念的》にとらえているようです。
《歌うように吹いている人》はそうではありません。
《肉体的、感覚的》すなわち、私流に言えば《耳と身体》で「歌うこと」をとらえています。
以前フリードリッヒさんがレッスンで歌いながら、歌わせながらレッスンしたのは
まさにこの事だったのですが・・・
残念ながらあの時は理解されたとは言い難かったようです。アマチュア吹奏楽などでは「センパイ」が教えるそうですが、「センパイ」より前に
「センセイ」の認識が大事だと思っています。
「センセイ」はだいたい「頭が良く」「カガクテキ」な人が多いように思えます。
「歌う」という事を観念的にとらえている場合があります。
「歌うように」という事は単なる発想記号ではありません。
音楽が単なる「教養」でないように・・・皆さんはどの様にお考えですか?
「読者からのメール」・・・の巻
こんにちは。私はN音楽大学Trb1年のHという者です。
大変遅くなりましたが、先月は吹奏楽にて素敵なご指導ありがとうございました。とても勉強になりました。
ところで、今日先生のホームページを読んでメールをせずにはいられませんでした。
実は私も去年肺気胸を経験しているのです。当時、音大受験のために個人レッスンには行っていたのですが、
私の先生だった方は呼吸のことなど何も教えてくれなかったため、私は部活の顧問から強制されていた
強制深呼吸のまま吹き続けていました。しかも「受験のため」と1日何時間も練習していたのです。
そしてある朝左肺の肺胞に穴が空いてしまい、入院→手術ということになってしまいました。
医師は「肺気胸の原因は不明だし、楽器で少し無理をしたからといって肺に穴は空かない」
とおっしゃいました。それから退院して、楽器を再開したものの、いろいろなことがあって
私は楽器を練習するやる気がなくなってほとんど練習しなくなりました。
そのことが結局よかったみたいです。もしもそれまで通りの時間練習していたら、
もう1度気胸になっていたかもしれないと思うからです。高校生時代私は、ベルカントモードも強制深呼吸という言葉も知りませんでした。
吹いていて苦しくて仕方なくて「腹式呼吸なんてウソだ!」とは思ったものの、
どうしたら良いのかわからずに結局強制深呼吸からは抜け出せませんでした。
私はブレスが異様に短くて、顧問からは「お前がそんなところでブレスをするのは
腹式呼吸をしてないのと音楽センスがないからだ!」と言われました。今でも思い出すと胸が痛みます。
大学に入ってK先生に呼吸のことをたくさん教えていただいて、まだまだ勉強不足ではあるものの、
以前よりずっと楽に吹けるようになりました。とてもうれしいです。
でも今日強制深呼吸のところを読んで、「高校生の頃の私と同じだ…」と思い、とても心が痛みました。
やっぱり日本にはおかしな教え方をする先生はたくさんいるのですね。
自分の体に無理をきかせて鍛えるのではなく、自分にとっていかに楽で合理的な状態を探すことが
練習なのだと思います。腹式呼吸の変な教え方は生徒の上達を妨げるだけでなく、
真面目な生徒が苦しむだけですよね。あと、お医者さん達が強制深呼吸と肺気胸の関連についてあまり理解していないことにも驚きます。
もっとお医者さんが理解してくだされば、少しはよくなるのではないのかと思いました。
私は手術をして1年以上経っても傷口の神経痛に悩まされることもよくあります。
もっと自分の目で体の中をみてからだが苦しんでいるのがわかっていたら、
肺に穴は空かなかったと思います。これから練習していく中で、自分のからだをよく理解して、
根性だけでがんばるようなことは絶対にやめたいと思います。
そして、吹奏楽部の皆さんのなかで高校時代の私のようになる人が1人でも減ることを願ってやみません。
「またまた強制深呼吸について」・・・の巻
少し前の「会議室」に書き込みがありました。
メールでもっと詳しい内容で相談がありましたので、実際に会って
レッスンをしながらお話をしました。例の「強制深呼吸」の問題です。
「同じ部の友達が《縦隔気腫》と診断されドクターストップがかかりました。
先輩は肋軟骨を痛めて楽器をやめざるを得ませんでした」という話です。
お医者さんには「職業病」だと言われたそうです。「自分も不安だ」という話でした。
私は「職業病」ではなく「やり方」が間違っているからだとして説明しました。http://www.naika.or.jp/fellow/kaishi/11/111/syourei/syourei2.html
http://www.chijimatsu.com/pneumomedia.html
私が直接、間接に話を聞いた気胸とか縦隔気腫、つまり肺胞が破れってしまった
《管楽器奏者》は例外なく「強制深呼吸」を常とする人達でした。
そして「練習熱心」な人である場合が多いようです。
今回もまったく予想通りそのパターンに当てはまっていました。
以前、よその掲示板でこの事が問題になったときに私がそのようなことを書いたところ、
医学に詳しいとする方から「ラッパを吹いたぐらいで気道内圧がそれほど
上昇するとは考えられない。原因は別にある」とか
「そんな論文は見たことがない」とかで、医学の素人の話として一蹴されました。
「私は医者ではないので《気胸一般》は知らないが、《管楽器を吹く人の場合》は
私の知る範囲では例外なく《強制深呼吸》を行ってきた人です。
どなたかお医者さんで研究してくれる人はいませんか?」と書きました。
その理由として考えられるのが《強制深呼吸》は呼気時に《いきみ》を誘発することであり、
《いきみ》のための呼吸と言っても良いからです。
「本」にも書いたようにこれは《お産・排便》の時の呼吸だからです。
《お産・排便》の時の呼吸でそれよりももっといきんでいるとしたら・・・
歌や管楽器のためのベルカントモードとは逆の身体のバランスなのですが、
「腹式」というお題目、呪縛が「下腹式」という誤解を生んでしまっているわけです。何度もこの問題については書きましたが、やはりまだまだ多いのだなと実感しました。
「腹式呼吸」と称して「下腹を膨らませなさい」「下腹に息を入れなさい」と
教えている人達が少なからずいるという問題です。
これでは自然なハイチェストが生まれないし(胸郭が拡がりにくい)
呼気時の対応運動(息の支え)も起こりません。全身のバランスがおかしくなります。
《支えられた息》というのがどういう意味か分かろうとしないのです。
だから、どうしても吹くときに《いきんでしまう》わけです。
しかし練習熱心で真面目なので「私はがんばっているのだ」「一生懸命吹いているのだ」と
考えています。一生懸命で変なことをやっているわけなのですが、
《いきんでいる》とはなかなか気がつかないわけです。
《苦しいけれどがんばれば上手になる》という精神論にすり替わっているわけです。そんなことしなくても「楽器は勝手に鳴ってくれるのに・・・」と言うのですが、
私の言うことなど耳に入らないわけです。面倒くさいのかもしれません。
それより単純に《がんばることは善いことだ》というわけです。おまけに・・・
今回のケースは部のトレーナーから怪しげな練習方法と共に《強制》されていました。
友達や先輩がおかしくなったので心配になって相談にきてくれてよかったと思っています。
単に高い音が出にくいとかの問題にとどまらないわけです。
「一生懸命練習したら肺胞が破れてしまいました」などという話は笑い事ではすみません。
《管楽器を吹いている人の》腰痛、痔、胸や背中の痛みは吹き方に問題があると考えます。
トレーナーさん「強制深呼吸」を《強制》しないで下さい。お願いです。
お医者さんに軽く「職業病だよ」などと言われないためにも・・・皆さんはどの様にお考えですか?
「ファーカスの呪縛」・・・の巻
以前の「こぼれ話」でも書いたことがありますが、フィリップ・ファーカス流の
アンブシュアの説明は役に立つのかな?というお話です。
未だにファーカス説にこだわって四苦八苦している人達もいるようです。曰く、「上行のパッセージでdiminuendoする場合は、上昇を通じて唇の徹底的な緊張が必要である」反対に「下行のパッセージでcrescendoする場合は下行を通じて唇のアパチュアを徹底的に広げる
ことが必要である」
みんなそんな事してるのかな?ウソでしょ?
「アパチュアの形はオーボエのリードの開きの形に似ている。そして、音の高低に合わせて
相似形に変化する」
ホント?そんなに変化するの?
面白いことに、ファーカス説の信者はあくまでも振動(バズィング)が
音の源だと信じているようです。単純に考えているわけです。
以前にも書きましたが・・・
狭いすき間を気流が通り抜けるときに起こる疎密波の発生(ベルヌーイの法則)や
正常な声帯の振動における「ベルヌーイ効果による自励的振動」という知見を
全く無視しているわけです。
声唇であれ本物の唇であれ楽音が出るということはそんなに単純な話ではありません。
おまけに「上下の歯を揃えましょう」などということを信じていたりします。これらをまとめて言うべき言葉が見つからないので「ファーカスの呪縛」と名付けました。
まさに宗教の呪縛のようだと思うからです。
そんな怪しげな説明にこだわることなく「アパチュアはそんなに変化しないんだよ」とか
「低い音は開いたらダメだよ」「高い音はリラックスが大事だよ」とか教えている
先生達のほうが役に立つと私は思っています。
こういう教え方の裏側には「息の流れ」に関するヒントが必要だからです。ファーカスが著名なホルン奏者であったためか、「ファーカスの呪縛」にとらわれているのは
ホルンを吹いている人、特にアマチュアに多いようです。
低音を吹く場合の錯覚がそのような呪縛を生むのではないかと思いますが、ホルン吹きだけでなく
他の楽器を吹いている人でも信者はいます。
この人達は低い音が開いても高い音が詰まってもあまり気にしていないように思えます。
気にしていてもどうしたらいいのか分からないかもしれません。
そうでない人と比べてみるとはっきりわかります。
「ファーカスの呪縛」から解き放たれてみると見えてくることがあるわけです。皆さんはどうお考えですか?
「歌う心、歌う身体」・・・の巻
恋の歌、別れの歌。希望の歌、恨み歌。星の彼方から水平線の向こうまで。妖精から道化師。
汽車ポッポから鳩ポッポ、蚤から蛙にいたるまで。森羅万象。何かにつけて人は歌うようです。
音楽をする心の基底をなすものは歌う心であるといってもよいでしょう。演奏者にとっての問題はそこからはじまります。
歌う心と歌声(サウンド)と身体のバランスの問題です。
例えばひとつのフレーズを歌う場合、そのフレーズを歌う心と歌う身体は
分けて考えることは出来ません。サウンドイメージが歌心と体をつなぎます。
そのイメージがあいまいであれ具体的であれ、身体のバランスに影響を与えます。
歌おうとするフレーズが地声サウンドでイメージされていれば、
体のバランスは地声モードになっていくのが自然な流れです。
その歌が地声で歌われるべきフレーズならばそれでよいでしょう。
しかし、それがベルカント(歌唱発声)サウンドで歌われるべき歌なのに
イメージが地声サウンドで流れていたら大変困ります。
身体のバランスをベルカントモードもっていくのは不可能に近いでしょう。演奏者にとって身体のバランスはイメージの方向に引っ張られます。
あいまいなイメージであれば、あいまいな身体のバランスで奮闘します。
イメージは出来るだけ鮮明である必要があります。
これがよく言われる「耳と共に」という言葉の意味だと思います。
私はこれを「もうひとつの耳」という言い方をしてきました。最も分かりやすい例で言えば「大きな声」と「怒鳴り声」の違いが峻別できなければ
身体は地声モードのまま「怒鳴ったような音」を出しても平気です。
何でもいいから高い音が出したい人は「締め上げたような高い音」を出しても気にしません。
とりあえず出ればそれでいいわけです。私は心と身体を分けて考えることは出来ません。
フィジカルに説明すると言っても「耳と共に」あるわけです。
そして、「もうひとつの耳」はきっかけさえあれば発達します。
すなわち、イメージはより鮮明になっていくわけです。
その事がまた音楽する身体のバランスをよりはっきりと定着させます。この夏も沢山の生徒、その他吹奏楽をやっている人達に出会いましたが、
きっかけをつかんだ人達は「何故かバテない」とか「楽に響く」とか
「高い音域が楽になった」とか言いはじめました。
歌う心と歌声が鮮明にひとつにイメージされていれば、身体のバランスも分かりやすくなります。「とにかく上手くなりたい」「とにかく高い音を出したい」「とにかく大きな音を出したい」
その為の「何かいいコツはありませんか?」と問われても私には答えようがありません。
呼吸法のお話は「歌う身体」のお話ですが、同時に歌う心と歌声のお話でもあります。
私にとってはこのコンセプトのほうが神秘的なヨガの話よりよく分かります。皆さんはどの様にお考えですか?
「実践的《響き》論」・・・の巻
クラシックの場合、音楽は「響き」を利用して成り立っていると言ってもよいと思います。
しかし、「響き」という言葉はベンリな言葉なので、さまざまな場面でさまざまな
意味合いで使われています。ここでは代表的な二つの使われ方について書きます。
日頃、弦楽器の人達との会話の中身について書いてみます。音についてしゃべる時、響きという言葉は先ず二種類の使われ方をする場合が多いようです。
「ツボに当たって響く」という言葉ですが、これは「裏板まで鳴らせ」という言葉と
同様の意味を持っています。共鳴箱の中の空気が充分響くようにという意味ですね。
まったくそのとおりだと思います。もうひとつは、ヴァイオリンの先生が「見かけの音の甘さにごまかされるな」とか
「君の低音域の芯のない響きをなんとかしなさい!」とか
「子音のない音なんて音ではないでしょう?」と言う場合があります。
これは振動音と同時に中、低音域における高次倍音の重要性を指した言葉です。
《響き》という言葉が使われる場合、これら二つの意味を先ず耳で分かることが
ベンリで実際に役立つわけです。しかし・・・二つを区別しないでごっちゃにして単に「音」として聞いていると困ることが色々あります。
最初に困るのは音程を合わせるときです。
例えば、ピッコロとファゴット、バスクラ、コンバスのような楽器を合わせる場合ですね。
ツボに当たっているかどうかということと同時に、高次倍音としての《響き》を
聞いていないと合わせることは困難ですよね。
常日頃、絶対音感をひけらかしている指揮者がミゴトに逆の指示を出したこともあります。次に分かりやすい例は、分厚いTuttiと共にソロがある場合です。
自分の音がTuttiに埋没する音の場合、つい瞬間的に力で壁をぶち破ろうと
しがちになりますよね・・・しかし・・・
力勝負になってしまわないためには高次倍音としての「響き」が必要です。
すなわち、「輝き」とか「音が離れる」とか「響きが上に上がる」とか言われる助言です。
Tuttiを力でぶち破るのではなく、Tuttiの上から聞かす状態をねらうわけです。
しかし、さっきの意味での《響き》を大事にしなければ、また力勝負に舞いもどります。
このように、二つの意味で使われることが多い事を分かっているとベンリです。「鳴り響く」という言葉がありますが、「鳴り」を強調するということは
振動成分を強調することですから、振動しやすいベルを持った楽器を「鳴りやすい」という
ふうに言うのはよく分かります。
ただし、その振動の質が問題なわけです。例えば粘膜依存型の振動だったらどうでしょう?
振動と共鳴のバランス感覚は音楽によって、場面によって、あるいは
民族によって、個人によってそれぞれかもしれません。
ただ、クラシック音楽の場合「鳴り」だけでなく「響き」についての
認識が重要だと思います。
弦楽器の人達と話すとき、以上のような音の聴き方をしている事を互いに確認できます。
しかし、弦の人でも全く違った聴き方の人もいますから、戸惑う場合もあります。
ただ単に漠然と「いい音」と言われても困ってしまいます。
音の聴き方について全く違ったコンセプトがあるかもしれませんが・・・
私の場合はこの様な聴き方がベンリだと思っています。皆さんはどの様にお考えですか?
「ブレーキとアクセル・母音の位置」・・・の巻
ラッパを吹いている人にとって「唇の余分な力、固さ」というのが
一番やっかいなものですが、それを自覚しない生徒も沢山いるところに
悲喜劇が生まれると思います。
吹きやすい音域を、吹きやすい音量で吹いているだけならいいのですが、
当然ながらそれでは音楽になりません。そこで
先ず高い音で「余分な力、固さ」に気がつくはずなのですが、でも・・・
「唇をもっと鍛えればよい」とか「息のスピードが足りないせいだ」
とか考える生徒が結構多いようです。そして根性論に走ったりします。
大きな音の場合でも同じような理由を考えつくようです。
そのような考え方ではPPでも固くなってしまいます。そして、耐久力もなくなります。
「根性」は別の面でおおいに発揮して欲しいのですが・・・「呼吸法」を練習して「息のスピードを上げよう」というふうな発想をする生徒は
だいたいこの様な考え方をしている場合が多いようです。
「本」や「こぼれ話」でお分かりのように、私の考え方はそうではありません。
息の流れの邪魔をしている部分から余分な力を取り除こうという発想です。
「楽に音が出ている」とはそういう状態だと思います。
それをしないで息のスピードを上げようとすることは
「ブレーキを踏んだ車を後から一生懸命押している」あるいは
「ブレーキを踏んだままアクセルをふかしている」ようなものです。「ベルカントモード」、「母音の位置は後ろ」、「支えられた息」等々の言葉は
「楽に響く音」のためなのです。ブレーキを踏んだままでは前進できません。
しかし、「粘膜依存型地声アンブシュア」という言葉を発した時もそうでしたが、
どうも私の説明は一部では「奇説」「珍説」のたぐいと思われているようです。(笑)私からすれば「ブレーキを踏んだまま前進する」事の方がよっぽど不合理だと思います。
以前の「こぼれ話」で紹介したように、フリードリッヒさんのレッスンやレクチャーを
受講された方は、彼自身が声を出しつつ受講者にも声を出させながら説明するやり方を
ご存じだと思います。
彼はまさにこの事を説明しているわけです。
偶然のことながら、あまりにも類似していたのでびっくりして
以前、「こぼれ話」で紹介したわけです。「歌うように吹く」事が上手くいった時、息の流れを邪魔している余分な力が取れます。
その結果、唇の余分な力、固さが取れていくわけです。
私はこの様な方法論しか知りません。他の方法をご存じの方はそれでおやり下さい。
「歌うように吹きたくない人」も何らかの方法でこの状態に持っていく必要があろうと思います。
どんな方法論であろうとやるべき事はやらなければなりません。これが私の立場です。
しかし、このプロセスを省略して生まれつきの歯や唇のせいにして悩む生徒もいます。
理論的にどの様に説明され、統計的にどの様なデータを根拠にして悩むんでしょう?
そのへんがあまりよく分かりません。
夢も希望も打ち砕くような話にはならないのでしょうか?ここに歯科医の先生によって書かれた本があります。
その中に音声学の知見を援用した部分があります。《固有口腔を狭いA室(前方)と広いB室(後方)に分け、日本人はA室のみで
言語を発音するのに対して、西洋人はB室をも使って発音しているから
楽器の音色が違っているのだ》というお話です。
話し言葉に関する説明には異議はありません。(説明の仕方はともかく)
しかし、私の立場と先生とはその先の展開が違っています。
私は話し言葉の母音の位置で楽器を吹いてはまずいという立場だからです。先生のお話は、話し言葉の母音の位置で管楽器を吹くことを前提としています。
話し言葉と歌唱発声における母音の位置の区別をしないというお立場ですから、すぐに
《日本人は西洋人の真似をすることなく日本人独特の音を目指すべきだ》
という結論が導かれています。
ご存じのように、私は母音の位置が話し言葉と同じ状態で吹く事を《地声モード》
とネーミングしているわけです。それでは、ヨーロッパで活躍した私の知人の歌手達はいったい
どこの国の人なんでしょう?
そしてもうひとつ、西欧語を母国語とする二世、三世等のデータはあるでしょうか?
いずれにせよ、私は「楽に楽器を吹きたい」ただそれだけです。
外国人であろうが日本人であろうが、楽に吹くことは出来るわけです。
その後に日本人とか外国人とかの議論をしても遅くはないと思います。そうでなければ単に息のスピードを求めてメディアン・スペース(前歯の人工的なすき間)
にでも頼らなければならなくなってしまいます。これでは全く困った話になります。
この本の「人工的すき間論」は「母音のA室固定論」の上に成り立っているので、
やがて破綻をきたすものと思います。少なくとも私には理解できません。マジオ教本では「スロートポジションとシラブルの関係」で説明しています。
どんな方法論でもかまいませんが、ブレーキを踏んだままアクセルを踏むのだけは
やめた方がよいと思います。
言いたいことはまだまだありますが、今回はこのへんで・・・皆さんはどの様にお考えですか?
「お医者さんと歌手」・・・の巻
歌手が声帯のコンディションに気を遣うのは、ラッパ吹きが唇や歯に対して
気を遣うのとは比べものにならないようです。(少なくとも私とは違います)
そこで、耳鼻咽喉科のお医者さんは歌手にとって身近な存在となっているようです。
一方、声楽が好きなお医者さん、声楽発声に詳しいお医者さんもおられます。ある歌手志望の女性が喉の悩みをお医者さんのところへ相談に行きました。
その先生は診察しておっしゃいました。
「君の声帯の長さや太さから言ってソプラノではありません、アルトです」
かわいそうに、その人は悩みがまた一つ増えてしまいました。
その話を聞いて、ある発声指導者はこうおっしゃいました。
「なんで声帯を見ただけで向き不向きが言えるの?シロウトだと思ってバカにしてるのかな?」
「声種決定にはさまざまな要素がからんでくるわけだから、医者が決定してしまうのは僭越です。
悩まないで、先ずきちんとしたトレーニングをしましょう」
声種の問題だけではありません。同じ「声種」でも「声質」の問題がありますよね。
レジェーロ、リリコ、ドラマティーコ等々・・・
とても一言で言えるような事柄ではありませんよね。
このお医者さんをA先生とします。対照的にこんなお医者さんもおられます。
声楽発声にも詳しい方ですから歌手も訪れますが、
診察した歌手の全てに最後まで医学的な治療をするとは限りません。
時には信頼できる発声指導者を紹介する事さえあります。
適切な発声指導によって、歌手の声帯にできたポリープが消失する例もあるのです。
もちろん、そのお医者さんと発声指導者の間にはお互いの見識、理論、実践経験、
診断等に対する信頼があっての事です。そんな連係プレーは一朝一夕に出来るような
簡単な事ではありませんが、このお医者さんをB先生とします。歌手にとっては、お医者さんがどの様な「耳」と「発声理論」を持って自分の声帯を
医学的に診察してくれるかが生命線であることがよくわかります。
又聞きのような「発声理論」と「耳」で歌手の声帯を扱われたらたまりませんよね。あるお医者さんがこの様におっしゃっています。
「医者は何でも知っているはずと思うのは患者の思いこみ」
「実際は常に最善を求めて、必死で治療に当たっているというのが正直なところです」
「インフォームド・コンセントは患者さんが医師に対して要求する説明義務のように
言われているが、しかし実はそれから先は患者さんが決めなければならないという
側面を持っているんですよ」
わかりやすいお話です。もしお医者さんがA先生のようなタイプだけだったら困りますが、
信頼できるお医者さんは案外近所にいたりすることもありますよね。それとは別に気の病というのも実際にあるようで・・・ある歌手に関する笑い話を一つ。
大きな本番の前日ぐらいになると、必ずといっていいほど「風邪ひいて大変だ~」と言って大騒ぎ。
つらそうに鼻をかむやら大きなマスクをするやら、端から見ても何だかかわいそうな様子です。
ところが、いざ本番になると見事な声で歌を聴かせてくれます。
本番が終わると何だか元気そうです。
世の中には不思議な風邪もあるようです?
お医者さん泣かせでしょうか?? 人生不可解(笑)皆さんはどの様にお考えですか?
「空気を吸い込む人」・・・の巻
ただ単に息を《吸う》のか、空気を《吸い込む》のかというお話です。
息を吸うときに胸郭は拡がり、上腹部は膨らみますが、下腹部は膨らみません。
この事はベルカントモードでは同時に起こる現象です。腹壁は固くなりません。
鎖骨の下と上腹部に手のひらを当てて息を吸ってみれば分かります。柔らかく膨らんできます。
単純な現象なのですが、さまざまな思いこみがあると困ったことが起きます。例えば、「空気を出来るだけ沢山吸おう!」という考えです。
大きな音や高い音のためでしょうか、沢山吸わなければならないと考える人もいます。
もちろん、楽器を吹く時は安静時の呼吸よりは空気が多いのは事実です。しかし・・・
結果的に必要な息は入るのであって、力ずくで空気を吸い込んだりしてもムダですよね。「力ずく」にもいろいろあります。
とりあえず喉を楽にしたい人は下腹部を膨らませます。
しかし、それだけでは胸郭は拡がらないのでわざと「胸を上げ」ます。
思いこんでいるので力ずくでやっているという認識はありません。
一方でベルカントモードで起こる現象を力ずくでやろうとする人もいます。
胸郭を《拡げ》ます。上腹部を《膨らませ》ます。下腹に《力を入れ》ます。
そんな事をすれば背中や脚にも力が入って、しまいには痛くなると思うのですが・・・そういう人達は往々にして、フレーズの切れ目でも空気を《吸い込み》ます。
私も若い頃、指揮者の故山田和男先生に見つかって一喝されたことがあります(笑)
あの時は《息継ぎ》です。ただ単に息を継げばいいわけです。黙っていても息は入ってきます。
これに気がついて自分が何をやっていたのか分かった人もいます。私の場合、呼吸法の説明をするときに《エアー》という言葉は使いません。
よそよそしくて実感に乏しく、空気を吸い込む事を連想させてキケンだと思っています。
横文字を使えば分かったような気分になれるかもしれませんが、この言葉はキライです。(笑)
ましてや《カガクテキあぷろーち》などという言葉はオソロシクテとても使えません。
日本語には《息をする》というちゃんとした動詞があります。
言葉の違いはイメージの違いだと思っています。私は空気を吸い込んでいる人に対してこんな言い方をすることがあります。(他にもありますが)
「首筋を通って息が入ってくるでしょう?」「背すじが自然に延びるでしょう?」
「そうすれば自然にベルカントモードのバランスになるでしょう?」
《息をする》という事は全身のバランスです。
《エアーを取り込む》というようなブツを取り扱う事とはちょっと違っていますよね。
脊椎伸筋、臀筋、腹斜筋は《息をする》時の土台ですが、《働いてくれる》のであって、
力ずくで《働かせる》ものではありません。
イメージが変われば体のバランスは微妙に、時にはガラッと変わってきます。
「フィジカルに説明する」と言って、ただ単にブツの構造や取り扱いを説明しても限界があります。
そういうのを「タダモノ論」というのであって「唯物論」にもなりません。皆さんはどうお考えですか?
「母音と子音・番外編」・・・の巻
歌唱発声における有益な助言として「子音は前、母音は後ろ」という言葉があって、
これが管楽器にも大変重要なヒントとして活用できます。
私の場合、ベルカントモードはこの言葉から始まると言ってよいと思っています。管楽器の場合、子音は舌先ですから共通しています。
母音の位置は変えることが出来ます。それによって前後関係、距離といったものが
イメージできるわけです。(実際は喉の状態)
ところが、弦楽器の場合でもこの助言が成立します。
以前、弦楽器の人達にこのコンセプトを話したら興味を持って話題に乗ってきました。
こういうコンセプトで語る弦楽教師はいませんが、話せば分かって貰えました。
「本」にはその一部を書いておきました。弦楽器は管楽器と違って子音の位置が動きます。
指と駒との間、弦の中央付近に母音の位置があって、これは動きません。
弓と弦と出会う場所が子音の位置です。これは動きます。
これによってお互いの距離が分かります。
子音の位置は駒の近くから指板方向に向かって一定の許容範囲があります。
それを越えて母音に近づけば地声サウンドになります。
スル・ポンティチェロやスル・タストは効果音で少し意味が違っています。一般に弦のソリストでは駒の近くからの範囲が狭いようです。(母音との距離がより遠い)
この方が音が離れるからです。響きはちゃんと上に上がります。
(そうでないソリストもいます。私には理解不能ですが・・・)
しかし、ここを弾くのは右腕の脱力、左指の問題、その他・・・
きちんとさらわないといけないわけです。日々のトレーニングの中身が問われます。
オーケストラの奏者はさまざまな場面に対応しますのでもっと範囲が広くなります。
しかし、範囲を超えて母音に近づき過ぎてはまずいわけです。ところが・・・母音に近づけば左指の押さえがアバウトでもとりあえず指が回ります。
不完全な右手の脱力でもとりあえず子音が汚くなりません。
弓を力で押しつけてヴィブラートでごまかすことも出来ます。
弓の自然な吸い付きと押しつけの区別が付かなくなる場合があるわけです。
自然な音と作った音の区別の重要なところです。
子音が汚なくなるのを嫌がって子音そのものを否定する人まで出てきます。
この世界にもさまざまな悲喜劇があります。
フルートの人にはすぐわかる話だと思っていますが・・・若い頃仕事をしていた某オーケストラのコンサートマスターは
本番の前、ステージ裏でいつもロングトーンの練習をしておられました。
実にゆっくりとした弓です。しかし響いているのですごく大きな音に聞こえます。
母音との距離が適切な奏者は「脱力した腕の重さ」でボウイングを説明します。
母音との距離が近い奏者は「使う弓の量、スピード」で説明します。
極端な場合は低音域が開いた音でもあまり気にしない人さえいます。
ボウイングは管楽器の息にたとえられることが多いですよね。「母音と子音」の関係は実に興味深いと思います。
皆さんはどの様にお考えですか?
「アンブシュアの後ろ側ってなに?」・・・の巻
アンブシュアの後ろ側には実にさまざまな要素があります。たとえば歯ですよね。
これは見えるし、吹いているときとそうでないときの違いは、上下の歯の間隔です。
でも吹いているときは見えません。
これがいろいろと人を悩ましているのだなと考えています。
見えるのに見えない悩みもまたあるわけです・・・・・・・・
歯の上下問題と凸凹問題をごっちゃにすると頭の中が混乱します。
少なくとも私の頭の中では別の軸で考えた方がすっきりします。木管楽器のアンブシュアは吹いているときにも全部見えます。
フルートに至ってはアパチュアまで見えます。でも何故か上手くいかない人もいます。
一方、吹いているときとそうでないときに状態が違うけれども、いつも見えないものもあります。
ここにまた色々な問題がありますよね。私の場合はそれらのなかで、本当に見えない「息の流れ」という「事柄」に注目しました。
以前紹介した例の「風船の実験」でもお分かりのように、同じ「吹く」という事をとっても
「風船を吹くように吹く」のか「歌うように吹く」かでは全く体のバランスが違うわけです。
「事柄」を通じて他の「事柄」や見えるモノの役割を理解してみようというわけです。たとえばファーカスのアパチュア論は分かりやすいけどキケンですよね。(既述)
あの論議にとらわれていたらいずれ破綻をきたします。
アメリカ流プラグマティズムは便利だけどキケンな《側面》があるわけです。(笑)
そういうわけで、モードだのバランスだのというような言葉が多くなってしまいます。
抽象的だという批判は重々承知しているつもりですが、耳と共に読んでいただければ
分かって貰えるものと信じて書いているわけです。ひとつの例で言えば、
私は呼吸法の立場から見て問題を起こすアンブシュアとして「粘膜依存型地声アンブシュア」という表現をしました。そしてこれはベルカントモードのバランスを崩すので共存できないと書きました。誰でもピンとくるだろうなと思っているわけです。ところが、これを耳と共に読まない人達もおられるわけです。
耳と共に読まなければ、その人達にとって私などは「世に妄説をなす不逞の輩」もしくは
「A級戦犯」でしょう。しかし、私は常に耳掃除は必要な習慣だと思っています。「本」や過去の「こぼれ話」をお読みになった方はその後ろ側をよくご存じだと思います。
当然ながら「粘膜に依存し、地声モードを誘発するアンブシュア」という
意味合いを込めてネーミングしたものです。
例の地声サウンドの元ですよね。
吹奏楽を指導されている方はお分かりだと思うのですが、あの音でいくら鍛えても
限界があるわけで、なにか別の発想を持ってこなければ行き詰まってしまいます。
例の音の先に美しい音やダブルハイCが待っているわけではありません。「粘膜奏法」というのはさらに簡略化され、幾分かの揶揄を含んでいますね。
単に「粘膜吹き」と言う人もいます。
仲間うちとの会話であれば「例の吹き方」とか「あの吹き方」で通用します。
あるいは誰かに、レッスンで「その吹き方」と言われた人もいるかもしれません。
ある大先輩との会話では「アレ」です。しかし、
「本」で解説するときに「アレ」「例の吹き方」「あの吹き方」とは書けません。(笑)
できるだけその背景をも含んだネーミングにしなければなりません。
「アレ」でも「それ」でもかまいませんが、問題は音とその後ろ側にもあるわけです。
私の友達の「例の吹き方」という表現からも分かるように、
吹き方のモードにも関わっているわけです。
そこらあたりを想起せしめるものでなければなりません。思考停止は便利ですが困りものでもあるわけです。
そういう人達は血を流して吹いている中学生の姿を見たことがあるのかな?
と思うときもあります。このHPもそろそろ身の振り方を考えるときかもしれません。
さもないと、巣鴨ならぬ小菅送りのようです。
「仮説から自説へ」・・・の巻
世の中には「名人・天才」と呼ばれる人達がいます。
私のような極めて凡庸なる人間には出来ない事をやって見せてくれます。
しかし、そのような不思議な、未知の事柄を理解するために(合理的に説明するために)
既知の事柄を使って仮説を立てます。
次にその仮説が正しいかどうか検証(実験)します。
もちろん呼吸法に関する検証には大変多くの被験者(失礼)と時間が必要です。
その結果、仮説が成立すれば、そこではじめて自説となります。
もちろん「ベルカントモード」とか「地声モード」というネーミングはそのような経過を経た私の《自説》です。
自説が更に検証されて広く認められてはじめて定着したといえるでしょう。
そう言えば以前警察に捕まった「テーセツおじさん」というのもいましたね。
あの人どうしてるんでしょうね(笑)仮説を検証していく過程はもちろん大変重要ですが、重要なのは仮説を立てる段階です。
私の場合、どのような既知の事柄を使って仮説を立てたのかは「本」や「こぼれ話」の中で
大体お分かりと思います。1,「これまでの管楽器教育の中で言われてきた有益な助言、解説書」
「私が会う事の出来た名人達のヒント」
2,「声楽教育の中で言われている発声の理論と実際」「かすれ声や吃音に関する研究成果」
3,「弦楽器教育の中で言われてきた有益な助言、解説書」
4,「私自身の失敗と挫折体験」
このほかにも大事なものがありますが、それはお分かりだと思うので大略こんなところです。(1)に関してはそんなに世の中に溢れているわけではないにしても(2)に関するものは
まさに汗牛充棟、百花咲き乱れている感があります。
したがって、既知の事柄のディテールをどう読むかという事が大変重要になってきますので、
これが大変です。
幸い、身近に声楽家ですぐれた発声指導者に恵まれましたので、自分の理解の仕方を何度もチェックしてもらいながら(これが長期間かかるわけです)(笑)
最終的にOKが出るまでゲラ刷りまでつきあって見ていただきました。(感謝)(1)に関しても大事なのは既知の事柄に対する理解だと思います。
ひとつの例で言えば、
ペダルトーンやハイトーンと一言で言いますが、ペダルトーンやダブルペダルを想定するならば
ハイトーンは当然ダブルハイ音域の音も含んだ想定となります。そこで、
ペダル音域を開いて吹いている人と閉じて吹いている人では全く違った理解ですから、
その後の仮説の展開も全く違ったものになります。
筋肉の反応も違いますから違った仮説が生まれます。
私は仮説を立てる段階で低音域やペダル音域を開いて吹くということは排除しています。
呼吸法の仮説全体を組み立てる際に既知の教本の読み違いがあれば、
全く違った仮説が出来上がります。検証を経た自説と自説は一見真っ向から対立するように思えても、
不倶戴天の敵のごとく対立する事はないと思います。
必ずどこかで共通するものがあって分かり合えるものだと思います。
面子とか変なプライドによって縛られた人同士でなければ・・・私の場合は「こぼれ話」にも何度か書きましたが、バカで尚かつトロいのでそのあたりがあまりまだよく分かりません。
ただのバカなので不思議なことには興味があります。
次回は「不思議だな」と思った事のひとつについて書く予定です。皆さんはどの様にお考えですか?
「ガレスピーのほっぺた」・・・の巻
ほっぺたの深いところに筋肉があって頬筋(きょうきん)と呼ばれています。
膨らむほっぺたを押さえる役割を果たしています。風船を吹いてみると大変よく分かります。
私としては「風船を吹く筋」として記憶していました。(この記憶はあとで役に立ちます)
ところが、ラッパを吹くときにもこの筋肉の働きを強調する人がいます。
医学書の中には「トランペット吹きの筋」というふうに書いてあるものもあります。
「えー、重要でないとは言えないだろうけど、そこまで言うの?」
私にしたら「風船と管楽器や歌は息の送りが違うでしょ?」という考えがあるわけです。
吹き方のモード(様式)が全く違っていると思っていましたから・・・
したがって、「頬筋の収縮」は「風船吹き」の時に不可欠だとしても、「ラッパ吹き」の時は
そこまで重要とは言えないだろうと思っていたのです。
「そこまで言うのだったらこの問題をどう説明するの?」というわけです。そうです、ご存じガレスピーに代表される頬を膨らませて吹く名奏者の存在です。
頬筋は収縮していません。弛緩しています。収縮すれば頬は歯の方に近づきます。
ラッパを吹くときに頬筋の収縮はそんなに問題にするほど大事な問題ではないことが一目瞭然です。(無理に膨らますこともありませんが・・・)これは呼吸法の立場からは簡単に説明がつきます。
ベルカントモードの呼吸バランスを崩すアンブシュアは「粘膜依存型地声アンブシュア」だから
です。「本」にもこれとだけは共存できないと書きました。今でも変わりません。
ガレスピーはもちろん粘膜奏法なんかしていません。だからブレスコントロールに支障をきたすということがないのです。私はそのように解釈して納得していました。不思議でも何でもありません。
呼吸法の立場から見て問題なアンブシュアは「粘膜依存型」です。
頬が膨らむか膨らまないかということではありません。しかし、医学書を見ると頬筋について「液体や空気を吹き出す、泡を吹く、吐き出す、口笛を吹く、トランペット吹きの筋」というような説明も二、三あるので、生意気にも、
バカのクセして「ちょっと待ってください」と言ってラッパ吹きの立場を書いた事があります。
頬筋の収縮をそんなに「トランペット吹きの筋」と特筆大書することなんですか?
と言いたかったわけです。
医学書の説明に対して「不思議だな」と思ったわけです。
この文脈で読めばガレスピーが名奏者であることの説明がつかないからです。
もっと極端な場合は「頬筋が働いていなければ頬が膨らみ音なんて出ないはずです」と
されている方もおられます。医学に詳しい方です。まさに《驚愕の一言》です。
ほんとにそこまで言い切っちゃっていいのかな?
この立場でいけばガレスピーさん達が名奏者なのは宇宙人だからなの?
(そういえば「たま出版」の韮澤さんお元気かな・・・)しかし、医学書に「トランペット吹きの筋」と書かれているからにはそれなりの根拠があるはずです。そこで実験です。幸いに風船は大小7個百円で売っていました。(笑)
童心に返って風船を吹いてみました。
頬筋は頬の膨らみを押さえながら生き生きと働いています。
頬の深いところにあるのが簡単に分かります。
《風船の抵抗に逆らいながら》ひたすら吹き込んでいるわけです。
まるで楽器のツボではないところを吹いているみたいです。
唇は粘膜奏法そっくりです。
一方で喉は上がり、声門は開いています。ベルカントモードの正反対です。
どんどんいきんできます。(声門は狭くしても吹けますが、やはりいきんでいます)
ベルカントモードの呼吸バランスの特徴は「吸気的傾向」「対応運動」
すなわち「支えられた息」にあります。
風船を吹くときとラッパを吹くときは全く違う吹き方をしていることがよく分かります。
風船は地声モードそのもので吹いているわけです。
ためしに風船をベルカントモードで吹いてみると、まるでロングトーンをしているみたいです。
ちょっと膨らんだままでじっとしています。クレッシェンドしても風船に負けます。(笑)
頬筋はそんなに感じません。「いきみのバランス」ではないからです。
「頬筋の収縮」というキーワードにこだわって実験してみると、吹き方のモードによって全く反応が違っていました。
この問題は地声モードと関係しているだろうな?というのがこの時点での仮説です。そこで、実際に粘膜依存型地声アンブシュアでラッパを吹いて、ツボをはずしていきんでみたら、
普通に吹くよりも頬筋の収縮をより強く感じることが出来ました。なんと、
頬筋の収縮を「トランペット吹きの筋」と解説する根拠が分かったのです。
そうです、やっぱり地声モードです。
なるほど納得です。中学生から大人までトランペット吹きもいろいろ沢山いるわけですから・・・
医学書の解説も地声モードの文脈で読めば納得です、《治療に役立つ医学書》の立場としてはもちろんそれでいいでしょうね。
楽器を演奏するわけではありませんから・・・
しかし我々は演奏しなければいけません。
私は「頬筋の収縮」という現象を治療ではなく演奏の立場から見ています。
一方、私の知っている「名人・天才」はベルカントモードです。
そこで当然、頬筋の役割もその文脈で読もうとしたわけです。
そうするとガレスピーが名演奏家であることは不思議でも何でもないのです。
宇宙人ではありません。(韮澤さんに聞かなくてもわかるのです)
ガレスピーのほっぺたもベルカントモードの文脈で読めば納得です。「支えられた息」「喉・舌のリラックス」「声門は開かない、すき間と言ってよい」
「非・粘膜奏法」等々の現象は一連のもので関連していると考えます。
これを私はベルカントモードとネーミングしただけです。
さまざまな現象は私の知っている「名人・天才の特徴」なのです。
私の頭でひねり出したものではありません。バカな私がそんなこと出来るわけがありません。
バカついでに申しあげれば、よい子は変な実験をして私のように調子を崩さないでくださいね。
取り戻す時間も必要ですから。(笑)
頬の問題よりこわいのは粘膜・地声モードなのですから・・・
人間の身体というのは不思議なものですね。皆さんはどう思われますか?